狼と香辛料�㈵ Side Colors㈼ 支倉凍砂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)去勢|鶏《ドリ》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]終わり ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ] [#改ページ]  調理台に叩《たた》きつけた柔《やわ》らかめのパン生地《きじ》。  そこに、爪《つめ》でくねくねと線を書いて水を流し、ところどころに小さな木を植える。  そんなふうにすると、きっと目の前の光景が出来上がるに違《ちが》いない。  荷馬車の御者《ぎょしや》台の上でロレンスはそんなことを思い、ここ何日も食べていない焼き立てのパンの味を思い出して、つい喉《のど》を鳴らしてしまっていた。  町を出たのは三日ほど前で、まだまだ温かい食べ物が恋しくなるような時期ではない。昔はカビの生えかけたかちかちの岩みたいな燕麦《エンバク》パンと、一つまみの塩だけで山一つを越《こ》えたものだ。それを思えばパンとぶどう酒にあと一品つけられる旅の食事は、なんと豪華《ごうか》なのだろうかと仰天《ぎょうてん》してしまう。  ただ、必死に自分にそう言い聞かせるのだが、ここしばらくの旅はかなり財布《さいふ》の紐《ひも》が緩《ゆる》くなり、気もそれに応じて緩んでいる。  十八の頃《ころ》に独《ひと》り立《だ》ちして、今年で七年目になる行商の旅は、人生においてもっとも豪勢な旅になるかもしれなかった。 「鶏《トリ》の腿肉《ももにく》」  ロレンスが鳴らしてしまった喉の音を聞きつけたのか、同じく御者台に座る旅の相棒がそう言った。  仔《こ》狐《ギツネ》の襟巻《えりま》きに顔をうずめながら、のんびりと手元のふかふかの毛皮に櫛《くし》を通している。  手にしているのは犬とも狐《キツネ》とも違《ちが》う、独特の狼《オオカミ》の毛皮だ。  普通《ふつう》はもう少し毛が粗《あら》く、短くてどちらかというとみすぼらしい。  しかし、今旅の連れが手にしているその毛皮の質は、最上級といっても過言ではなく、夜になればその温かさのほどは奇跡《きせき》かというくらいだ。  時折口で毛の根元を噛《か》んでは、丁寧《ていねい》に梳《す》いている。  買ったとしたらいくらくらいだろうか。  ロレンスはそう思って、いや、と思いなおす。  これに至っては、買ったとしたらよりも、売ったとしたらいくらになるのかと考えるほうが適切だ。  なぜなら、その毛皮は加工品ではなく、未《いま》だ血の通う、生きた狼の尻尾《しっぽ》なのだから。 「それはお前が食いたい食べ物だろう?」  ロレンスが言うと、旅の連れ、ホロはひくひくと耳を動かした。  狼の尻尾と同じ色の、凜々《りり》しく尖《とが》った耳。  栗色の流れるような髪《かみ》の毛《け》が生えた頭の上にちょこんと鎮座《ちんざ》しているそれは、どう見ても人の物ではない。  この同じ御者《ぎょしゃ》台に座る、齢《よわい》十余に見える少女ホロは、狼の耳と尻尾を有した人ならざるものであり、その真の姿は麦に宿り豊作を司《つかさど》るという巨大《きょだい》な狼だった。 「雄鶏《おんどり》よりも雌鶏《めんどり》がよい」 「雌鳥は卵を産むしな」  よくかきまぜてふんわりと焼いた卵焼きを思い出す。この狼と話すと、つい食べ物の話になってしまう。  自称《じしょう》、ヨイツの賢狼《けんろう》であるらしいが、その俗《ぞく》っぽさといったら人間の比ではない。 「鶏……生の鶏はあの独特の弾力《だんりょく》と甘みがたまらぬ。羽がやや邪魔《じゃま》なところが難点じゃが……」  なにかの冗談《じょうだん》ならばひきつった苦笑いをしてしまうところだが、生憎《あいにく》とホロは本気だ。  その唇《くちびる》の下には、鋭《するど》い牙《きば》が潜《ひそ》んでいる。 「生は食べたことがないが、料理は手間をかけてこそだと思う」 「ほう?」 「羽をむしって、内臓を取り出して、骨を抜《ぬ》いてから、香草《こうそう》と一緒《いっしょ》に蒸《む》して、野菜と共に茄《ゆ》でて、腹の中に具の詰《つ》め物《もの》をして、熱した油をかけて皮をぱりぱりにして、最後に香ばしい木の実の油を塗《ぬ》ってもう一度焼いて……おい、涎《よだれ》」 「んっむっ………んむう……」  ロレンスも話に聞いただけで食べたことのない最上級の鶏料理。  ただ、想像力豊かなホロには又聞《またぎ》きの話だけで十分だったらしい。  賢狼としての誇《ほこ》りもどこへやら、こんな時だけの上目《うわめ》遣《づか》い。  もっとも、旅のし始めはともかくとして、いくらなんでもだいぶ慣れてきた。  それに、旅の途上《とじょう》ではどれだけねだられても怖《こわ》くはない。  売ってないものは買えないからだ。  ロレンスは圧倒《あっとう》的に有利な立場なので、一つ咳払《せきばら》いをして、こう答えた。 「まあ、待て。料理もそうだが、他《ほか》のところに一手間かけるともっとおいしくなる」 「……他のところ?」  ホロが、赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》をきょとんとさせてこちらを見る。  芝居《しばい》がかった目はともかく、こういう目になら多少は甘くしてやっても良い気がする。 「世の中にはな、雄鶏《おんどり》、雌鶏《めんどり》以外にも鶏がいるんだよ」 「むう?」  齢《よわい》何百年と生き、賢狼《けんろう》を自称《じしょう》する狼《オオカミ》の記憶《きおく》には該当《がいとう》するものがなかったらしい。  しかし、それで悔《くや》しそうにするかといえば、「それでそれで?」と純粋《じゅんすい》に興味深そうな顔をしてくるから調子が狂《くる》う。  ロレンスは、さっきとは意味合いの違《ちが》う咳払いをして、言葉を続けた。 「雄鶏をな、去勢して育てるんだよ」 「ほう……? それは……」 「そうすると、雌鳥よりもおいしい肉が取れるんだ。雄鶏ほど硬《かた》くならず、雌鳥のように卵に栄養をとられず……なんだ?」 「ふむ……」  ホロは視線をわざとらしく動かして、それから、にやりと笑って牙《きば》を見せた。 「確かに、おいしそうじゃな」  その真の姿はロレンスなど一飲みにできるような巨大《きょだい》な狼だ。  いや、そんなことよりも、ロレンスはもっと男として重要なところでホロに笑われた気がする。  咳払いをして、大きく咳払いをして、馬の手綱《たづな》を軽く振《ふ》った。  ホロはそれ以上|追撃《ついげき》をしてこなかったが、楽しそうにくつくつと笑い、そのたびに尻尾《しっぽ》が揺《ゆ》れていた。 「安心するがよい。ぬしがいざという時には頼《たよ》りになる雄《おす》じゃというのはわかっておる」  にっと笑って真っ白い牙を見せられたら、そんな冗談《じょうだん》も笑ってすまさなければ男ではない。  いいように掌《てのひら》の上で転がされていることがわかっても、どうしようもなかった。 「じゃがな」 「痛っ」  耳を引っ張られ、釣《つ》られて手綱《たづな》を引っ張ってしまったせいで馬がいなないた。 「鶏をねだられても怖くない、と確信して話を膨《ふく》らませるような姑息《こそく》なところは雄の風上《かざかみ》にも置けぬがな」  こちらの考えまで全《すべ》てお見通しだったらしい。  ホロは投げるようにロレンスの耳から手を離《はな》し、腕組《うでぐ》みをして不機嫌《ふきげん》そうに言った。 「ふん。からかったのはその仕返しじゃ。そんなうまそうな話……粗末《そまつ》な物しか食べさせてもらえぬ旅の上で聞かせられたら……わっちゃあ、苦しくて死んでしまいんす!」  からかったからかわないの話はおあいこだとしても、最後のところは聞き過ごすことができなかった。 「あのな、粗末というが、パンは小麦とライ麦の混合パンだし、ぶどう酒は歯で漉《こ》しながら飲まなくてもすむような透明《とうめい》なものだ。それにあと一品はチーズか、あるいは干し肉か、はたまた木の実か干しぶどうかといった豪勢《ごうせい》なものだ。俺は昔な、生のニンニクとタマネギだけをお供に旅に出ることが普通《ふつう》だった。そんな俺からすれば、信じられない贅沢《ぜいたく》だ」  ホロは妙《みょう》なところで子供っぽかったり獣《けもの》っぽかったりするが、基本的にその頭の良さはロレンスすらたじろいでしまう。  理屈《りくつ》が通じない相手ではない。  そして、ホロはその上でなお、こんなことを平気で言うのだ。 「死んでしまいんす」  それから、ぷいっとそっぽを向く。  これほどわざとらしい演技がこの世に果たして存在するだろうか?  ロレンスは舌を噛《か》んでしまったような顔をして、そっぽを向いたホロを憎《にくにく》々しげに睨《にら》む。  相手をすればこちらの負け。  しかし、無視をすれば意地の張り合いになることは明白で、そうなると先に音《ね》を上げるのは間違《まちが》いなくこちらだろう。  足元を見られるというのはこういうことだ。  ロレンスは、優雅《ゆうが》な言い方をすれば、ホロとは楽しく旅をしたいと思っている。  対するホロは、平気でそれを人質に取る。 「わかった、わかった」 「……なにがかや?」  振《ふ》り向きもせず、冷たい言葉が返ってくる。 「悪かった。鶏《ニワトリ》がいたら買ってやる。だが、旅の途中《とちゅう》の話は旅の間だけ有効だ」  ロレンスにとってここが最大の妥協《だきょう》点。  町に行ったら買ってやるとは、口が裂《さ》けても、財布《さいふ》が裂けない限り絶対に言えやしない。  ホロはやはり振り向かず、ただ耳だけをひくひくさせている。  そのよく回る頭で色々考えているに違いない。  それが本当に限界点なのだろうかと。 「わっちは人の嘘《うそ》を聞き分けられる、と以前に言った気がするんじゃが」 「もちろん、覚えている」 「そうかや」 「そうだ」 「ふむ……」  ホロはまたしばらく黙《だま》ってしまう。  それに対しロレンスはまるで審判《しんぱん》を待つ罪人のようにホロの次の言葉を待ってしまうが、よくよく考えるまでもなく自分に罪はないことがわかっている。  それでも、この理不尽《りふじん》な状況《じょうきょう》からは逃《に》げられない。  結局、ロレンスの提案が冗談《じょうだん》ですむ限界の落としどころと悟《さと》ったらしく、ホロはこちらを見てにっこりと微笑《ほほえ》んだ。  ずるい、と胸中で叫《さけ》ばずにいられようか。  ホロの変幻《へんげん》自在《じざい》な表情は、何年も独《ひと》り身《み》で荷馬車の旅をしていなくとも、いくらでも騙《だま》される奴《やつ》が列を成すような笑顔なのだから。 「ふむ……しかし、ぬしよ?」 「うん?」  しばらくのんびりと馬を歩かせていると、ホロが唐突《とうとつ》に口を開いた。 「さっきの言葉、嘘ではあるまいな?」 「さっきの……去勢|鶏《ドリ》の話か?」 「たわけ。鶏《ニワトリ》がいたら買ってくれるというやつじゃ」  なぜわざわざ確認《かくにん》を?  一瞬《いっしゅん》嫌《いや》な予感がしたが、隣《となり》のホロに袖《そで》を掴《つか》まれて、それは予感ですまないのだと気がついた。  即座《そくざ》に、頭と心が商人に切り替《か》わる。 「そんなこと、言った——」 「言ったじゃろう?」  ホロが顔を近づけて、低く唸《うな》る犬のような声で言ってくる。  その段になってようやく、ロレンスにも見えてきた。  ずっと続くなだらかな道の脇《わき》に、入がいる。  さすがにロレンスの目では確認などできないが、ホロにはそこに鶏がいることがわかるのだ。 「よもや、わっちを相手に言った言わぬの水掛《みずか》け論《ろん》をしたいわけじゃあるまいな?」  ホロの笑っていない笑顔ほど怖《こわ》いものはない。  しかし、鶏一羽を買わされたらどれほどの出費になるか、一度|膝《ひざ》を突《つ》き合わせて説明しなければならないかもしれない。  ただ、それもホロに聞く耳があった場合の話だ。  そして今、その聞く耳があるとはとても思えない。ロレンスは隣《となり》のホロを見て、ため息を一つつく。へたなことを言えば、こちらの命が危なかった。 「わかった、悪かった。約束は守る。だが——」 「だが?」  ほとんどロレンスの言葉に重ねるように聞き返し、ホロの真剣《しんけん》な視線が向けられる。  ロレンスは、言葉を選ばざるを得なかった。 「一羽だからな」  ホロはじっとこちらの目を見つめたまま動かない。  息が詰《つ》まるような沈黙《ちんもく》のあと、ホロは満面の笑《え》みになって前を向いた。  猟犬《りょうけん》に睨《にら》まれ、飛び立てなくなった鳥というものはこういう気分に違《ちが》いない。  ロレンスがそんなことを思って視線を戻《もど》すと、道の脇《わき》に腰《こし》を下ろしていた何者かがこちらに気がついて立ち上がった。  両手を大きく振《ふ》り、その顔が笑顔とわかる距離《きょり》になってようやく、その足元に鶏《ニワトリ》がつながれているのがわかった。 「一羽だからな」  ロレンスはもう一度言って、念を押《お》したのだった。 「旅の景気づけにいかがでしょう!」  辺りにはなにもない荒野《こうや》が広がり、道行く者の姿はない。  そんなだだっ広く開けた場所で、真冬の空の下一人客を待っていた風変わりな物売りは、ロレンスと同じ歳《とし》くらいののっぽの青年だった。  痩《や》せている割にどこかしっかりした体つきなのは農民特有のもの。  近づいて握手《あくしゅ》を交《か》わした時も、その手の皮の厚さにびっくりした。 「鶏の他《ほか》にも特製のビールなんかもありますよ、いかがですか?」  体の頑丈《がんじょう》さは行商人の比ではないらしい。  粗末《そまつ》な服に身を包み、口元からは白い息が立ち上っているのに少しも寒そうではない。むしろ朗《ほが》らかな笑顔で、鶏が道の草をついばむ横に置かれている膝《ひざ》くらいまでの高さの樽《たる》をぽんと叩く。  青年の威勢《いせい》はいいが、樽をまとめる鉄の箍《たが》は錆《さ》びて今にもばらばらになりそうだった。  その割に鶏は丸々と太っていて元気そうで、なんとも奇妙《きみょう》な取り合わせだ。  ロレンスはやや考え込んで顎鬚《あごひげ》を撫《な》でる。  ホロが早く鶏を買えと急《せ》かしてこないのも、辺りを見回して、そもそもなぜこんなところに旅姿でもない青年がいるのかと疑問を抱《いだ》いたからだろう。 「ビールのほうは、味見はできますか」  黙《だま》っているのもなんなので、ひとまずそんなふうに聞いてみる。  青年は大きくうなずいて、「もちろんですとも!」と胸を張りながら、計量用なのだろう大きめの枡《ます》を取り出して、蓋《ふた》を開けると中のビールをすくい上げた。 「仕込んだばかりですからね。ほら、泡《あわ》がまだ弾《はじ》けてるくらいです」  口をつけてみると、水がいいのか、それとも麦がいいのか、意外にうまくて驚《おどろ》いた。  ホロも欲しがったので一口飲ませたら、すぐに目だけでねだってくる。 「いかがです?」  青年の再度の言葉に、ロレンスはうなずき、目をもう一度|鶏《ニワトリ》に向ける。  ホロはローブの下で尻尾《しっぽ》が動かないように力んでいるのがよくわかった。  焼いた鶏とビール。  嬉《うれ》しくて仕方ないのだろう。 「そうだな。鶏と一緒《いっしょ》にビールを貰《もら》おうか」  ぴょこん、とフードの下で耳が跳《は》ね上がったことに気づかれなかったのは、青年もまた飛び上がらんばかりに喜んだからだ。  しかし、ロレンスはただ単にホロを連れて歩くだけの旅人ではない。  これでも行商人の端《はし》くれであり、口から出てきたのはこんな言葉だった。 「ただ、鶏を数羽貰いたい。 一羽ではなくてね」 「え?」  聞き返したのは青年だが、ホロもびっくりしてこちらを見つめていた。  最近は物の相場が多少はわかってきているホロだから、鶏一羽がどれほど高価なものかも薄々《うすうす》はわかっているのかもしれない。  物をねだったら、なんだかんだそのあとに埋《う》め合《あ》わせをするくらいに律儀《りちぎ》なホロ。  だから、数羽も欲しいなどとロレンスの口から出てきて驚《おどろ》いたのだろう。 「近くに村があるんだろう? そんなに急ぎの旅ではないから、よければ村まで行って買わせてもらいたい」  青年が街道《かいどう》沿いで荷物を担《かつ》ぎながら売り歩く類《たぐい》の商人ではないことは明白だ。  だとすれば、現金を稼《かせ》ぐためか、あるいは必需《ひつじゅ》品と交換《こうかん》するために村からわざわざここまで来ているのだろう。  そのロレンスの予想通り、青年は若干《じゃっかん》ぽかんとしながらうなずいて、それからもう一度力強くうなずいた。 「いやあ、本当ですか! もちろんですとも!」  喜色満面で、早速《さっそく》樽《たる》に縄《なわ》をかけて器用に背負ってしまう。  細々した荷物もさっさと麻袋《あさぶくろ》に詰《つ》めて樽の蓋の上に載《の》せ、鶏をつなぐ紐《ひも》を持つと高らかにこう言った。 「では、ご案内いたします!」  そして、意気|揚々《ようよう》と道から外れて歩き出す。  青年が向かう先は道のない荒野《こうや》だが、馬車で行けないこともないだろう。  ロレンスはそう判断して、馬をそちらに向けて手綱《たづな》を引いた。  その頃合《ころあい》を見計らってロレンスの袖《そで》を引いたのは、他《ほか》ならぬホロだった。 「ぬしよ、怒《おこ》っておるならそう言ってくりゃれ」  困ったような顔で言ってくる。  鶏《ニワトリ》を数羽買うなど、ロレンスがあてつけで言い出したと思ったのだろう。  思わず笑ってしまい、むしろホロのほうが怒って睨《にら》みつけてくる。 「悪い悪い。いや、だが、考えがあってのことだ」 「……考え?」  ホロは訝《いぶか》しげな顔を向けてくる。 「商人の勘《かん》、ともいえるかもしれない」  ホロの目は、胡散《うさん》臭《くさ》そうなものを見るようなものだったが、ロレンスは気にしない。  ホロの演技や罠《わな》には目をくらまされても、自分の商人の目はそれなりに信用しているからだ。 「うまくいったら本当に数羽買ってやろう」  その言葉にもホロは表情を変えない。 「期待しないで待っていんす」  だが、ロレンスは期待してしまう。  意気|揚々《ようよう》と歩く青年の行く先には、ちょっとした商売が待っているはずだったから。  青年がロレンスたちを導いたのは、遠くに森と泉が見える小さな村だった。  そこが殊更《ことさら》貧相《ひんそう》に見えたのは、急いで村を作ったかのように乱雑に配置された家々と、やはり好き勝手に耕しているように見える畑のせいだろうか。  統制の取れていない町や村というのは、混沌《こんとん》とした活気に満ちるか、みすぼらしさにまみれるかのどちらかで、この村は後者らしい。 「ずいぶん辺鄙《へんぴ》なところじゃな」  ホロがつい率直《そっちょく》な意見を口にしてしまう気持ちもわからなくはない。  町は他の町と、村は領主の館と道がつながって初めて存在することができるという。  だというのに、ただでさえ村の様子が貧相なのに加え、この村にたどり着くまでに通ってきたところはおよそ道と呼べるほどのものはなく、ほとんどここは外界から孤立《こりつ》しているといっても過言ではなかった。  陸の孤島、という言葉がよく当てはまった。 「さあ、到着《とうちゃく》です! ようこそ、ジサーズへ!」  そこからが村の土地である、ということを示すように、ささやかながら木の柵《さく》が立っている。  青年はそこを抜《ぬ》けるやこちらを振《ふ》り向いて大声で叫《さけ》ぶ。  他《ほか》になにがあるわけでもない小さな村なのだ。  だいぶ前からロレンスたちの姿を認めてじろじろこちらを眺《なが》めていた村人たちが、なんだなんだと押し寄せてきた。 「ま、ま、さあ、とりあえずこちらへ! 我が家で足の埃《ほこり》を落としてください」  青年は村人たちにロレンスのことを紹介《しょうかい》するでもなく、得意げに言いながら荷馬車を先導して歩いていく。  ホロのみならず、ロレンスすらも笑ってしまうくらいだ。  外から旅人を案内してきたことが、青年には誇《ほこ》らしくて仕方がないのかもしれない。  ただ、青年が口にした「足の埃を」という慣用句から、ここが正教徒の村であることはわかった。  ロレンスは、どうやら自分の予想が当たったらしいことにほくそ笑《え》む。  青年が一|軒《けん》の家の扉《とびら》を乱暴に叩《たた》き、さっさと扉を開けて中に入っていく。  その後、中から何度かやり取りする声が聞こえたあとに、慌《あわ》てた様子で飛び出してきたのは恰幅《かっぷく》の良いご婦人だった。  青年と顔がそっくりなのが、また面白《おもしろ》かった。 「まあまあようこそいらっしゃいました。ほら、あんたは村長さん呼んどいで!」  ロレンスの顔がずっと笑顔《えがお》なのは、彼らの対応が微笑《ほほえ》ましいからではない。  ホロがなにやら得心がいったような顔をしているのも、ロレンスのその笑顔に気がついたからだろう。 「えー、歓迎《かんげい》していただいてありがたいのですが、我々は単なる旅の商人で……」 「ええ、ええ、旅の商人様でも大歓迎ですとも! とにかくどうぞお入りになってください。ろくなおもてなしはできませんが」  ロレンスは御者《ぎょしや》台の上で恐縮《きょうしゅく》するように笑いながら、隣《となり》のホロに視線を向ける。  こういうことにかけては察しの良いホロだから、こくりとうなずいてから、婦人に向かって微笑んだ。  いちいち全《すべ》てを説明する手間を省けるのはそれだけで素晴《すば》らしい利益だ。  ロレンスは、存分に演技をすることができた。 「では、すみません。少しだけお邪魔《じゃま》させていただきます」 「はいどうぞこちらに。馬車はそのままでも構いません。あんた! ほら、飼《か》い葉《ば》の用意と、桶《おけ》に水汲《く》んできて!」  と婦人が叫《さけ》んだのは、人垣《ひとがき》の中にいた鋤《すき》を肩《かた》に担《かつ》いだ男にだった。  きっとこの家の主《あるじ》なのだろうが、我が家で一体何事だといった顔をしたまま言われるとおりに走り出した。  ロレンスは御者台から降り、ホロもそれに続く。  家の中に通される直前に、先ほどの青年に手を引かれてやってくる老人の姿が、小さく見えていた。  家の中は板張りでも石|床《ゆか》でもなく、土を踏《ふ》み固めただけの簡素なもの。そこに穴を掘《ほ》った囲炉裏《いろり》を囲むように木のテーブルと椅子《いす》も兼《か》ねた長持《ながもち》が置かれ、壁《かべ》に立てかけられている農具もどれも木製だった。  梁《はり》からはタマネギとニンニクが連なってぶら下がり、壁の高いところに位置する棚《たな》の上に置かれている乳白色の物はパン種だろう。  建物がたたずまいの割に広く作られているのは、ここに数家族住んでいるからかもしれない、ということが椅子や鍋《なべ》や椀《わん》の数から推《お》し量れた。  町の宿屋も嫌《きら》いではないが、自分自身寒村の出身なので、こういう部屋のほうが落ち着けたりする。  どちらかというと、ホロのほうが落ち着かなげな様子だった。 「ははあ、なるほど。ここからさらに北に向かわれるのですか」 「ええ。レノスという町なのですが」 「左様ですか……なんにせよここはごらんの通りの村でして、旅の商人様に立ち寄っていただけるのは大変ありがたいことです」  肩書《かたが》きが人を作るとはいうものの、村長と名のつく人間はどういうわけか似通った風体《ふうてい》になるらしい。  小柄《こがら》で痩《や》せたジサーズ村の村長は、深々と頭を下げた。 「私がここにやってくることになったのもきっと神のお導きです。それにこんなに歓待《かんたい》していただいて。なにかありましたらなんなりとご用命を。私はしがない行商人ですが、可能な限りお手伝いをさせていただきます」 「是非《ぜひ》ともよろしくお願いします」  ロレンスがずっと笑顔《えがお》なのはなにも愛想笑いだけではない。  言葉に嘘偽《うそいつわ》りなく、本当にこれは神のお導きに違《ちが》いないと、そう思っていたからだ。 「では、この出会いを神に感謝して……」  村長の言葉と共にロレンス、それにホロが木のコップを手に持ち、乾杯《かんぱい》した。 「……いやあ、おいしいビールですね」 「お恥《は》ずかしい。神に感謝するのであれば本当ならばぶどう酒なのですが、まだブドウの木がうまく根付きませんで」 「ぶどう酒は神が味を決められますが、ビールは人の手が味を決めます。さぞ素晴《すば》らしい醸造《じょうぞう》の秘訣《ひけつ》をお持ちなのでしょうね」  村長は謙遜《けんそん》するように首を横に振《ふ》るが、その喜びようは隠《かく》しようもない。  ただ、ホロがそんなテーブルの様子を静かに眺《なが》めているのは、このやり取《と》りを馬鹿《ばか》らしいと思っているのでも、用意された食べ物が貧相《ひんそう》だからでもないだろう。  で、結局なにを企《たくら》んでおる?  そんな視線を、ちらちらとロレンスに向けていた。 「実はこの醸造には秘伝の法を使いましてね」  ビールのことを褒《ほ》められたのがよほど嬉《うれ》しかったのか、村長はそんなことを話し出す。  老人から好印象を得たければ、その話をじっくり聞いてやることだ。  ロレンスは殊更《ことさら》興味を示すように村長の話に相槌《あいづち》を打っていると、突然《とつぜん》外が騒《さわ》がしくなった。 「それで……はて」  と、村長が後ろを振り向いた直後だった。 「村長さん! またドレたちが!」  扉《とびら》を開けて入ってきたのは手を土で真っ黒にした男で、慌《あわ》てた様子で外を指差してそう叫《さけ》んだ。  村長は苦々しげに立ち上がり、それから、ロレンスのほうを向いて頭《こうべ》を垂《た》れた。 「急に申し訳ない」 「いえ、十分もてなしは受けました。村の長としてのお役目を先に」  一度上げた顔をもう一度下げ、村長は男に急《せ》かされながら外に出ていった。  この村の人たちのしきたりどして、旅人は村長が一人でもてなすのが礼儀《れいぎ》らしく、その村長が出ていったせいでホロと二人だけ取り残された。  外には人の気配がしているので呼べば来るだろうが、ホロはこれ幸いとばかりに口を開いた。 「ぬしよ」 「いい加減種明かしをしろと?」  豆をつまみ、口に放《ほう》り込みながら、ホロはうなずいた。 「ここはな、植民の村なんだよ」  ロレンスが言うと、ホロは鸚鵡《おうむ》返《がえ》しに聞き返す。 「植民?」 「理由は様々だが、人々が未開の土地に移り住んで、そこに村や町を新しく作ることだ。たまに、ごくたまにだが、ここみたいに陸の孤島《ことう》に近い場所にそういう村ができることがある」  ホロはビールを飲みながら目をきょろきょろとさせる。 「なぜそんなことをするのかや」  そして、子供のように尋《たず》ねてきた。 「おそらくだがな、村に入る時、泉のほうに丸太や石が積んであっただろう? あれでここに修道院を作るつもりなんだろう」 「修道院を……かや?」 「そう。選ばれた敬虔《けいけん》な正教徒がひたすら神のために祈《いの》る場所だからな。俗世《ぞくせい》の喧騒《けんそう》に邪魔《じゃま》されず、従順と、純潔と、清貧《せいひん》を守って暮らせるように。だからこんな辺鄙《へんぴ》なところなんだよ」  ホロにとっては一日だって守れるかわからない厳しい規則が支配する沈黙《ちんもく》の砦《とリで》。  ただし、それを作るのは裾《すそ》の長いローブと聖典を手にした聖なる小羊たちではない。  この村の人たちは、親類から罪人を出してしまったか、あるいは異教徒と関《かか》わりのあった人たちだろう。  辺鄙な場所に修道院を作るというのは、ただ建物を建てるだけではなく、そこで修道士たちが生活できるように畑や飲み水の確保を全《すべ》て行うことも含《ふく》まれる。  それは過酷《かこく》な作業であり、彼らはそれと引《ひ》き換《か》えに自分たちの罪を修道士に償《つぐな》ってもらうのだ。 「ふむ……じゃが、それがぬしの言うとおりだとして……」  ホロはそこまで言って、教会の連中がどういう種類の人間かということを思い出したらしい。  そうすれば、ホロなら一人で正解にたどり着ける。 「つまり、ぬしは弱みに付け込もうというわけかや」  こういう言葉の選び方は、わざとだろうが。 「困っている人たちの助けになりたいだけだ」 「よく言うの。ぬしはこの村に唾《つば》をつけて、商売の糧《かて》にするんじゃろうが」  ロレンスがずっと顔が緩《ゆる》みっぱなしなのは、ここが未《いま》だ誰《だれ》にも荒《あ》らされていない格好の漁場となんら変わらないからだ。  農具、工具、家畜《かちく》、あるいは衣服や機織《はたおり》道具。村が村の中だけで暮らせた時代は昔の話。  村が一つあればそこには必ず需要《じゅょう》と供給が発生する。  丸々と肥えた鶏《ニワトリ》を連れ、うまいビールを樽《たる》に入れて街道《かいどう》沿いで売るような村は、行商人にとって宝の山に他《ほか》ならない。  ここで鶏やビールを仕入れ、この村に生活必需品を供給する。  村一つの取引を一手に担《にな》えれば、どんなビールよりもうまい儲《もう》けになる。  ホロは呆《あき》れるような顔をして、そんなロレンスを横目にビールに口をつける。  そして、ふとフードの下で耳をひくひくさせたかと思うと、にんまりと笑ってこちらを向いた。 「ふむ。ならばせいぜい人助けをしてきんす」 「?」  その言葉に聞き返す間もなく、扉《とびら》があわただしくノックされて開かれた。  そこにいたのは村長を呼びに来た男。  ロレンスにも、用件の見当がついた。 「すみません旅の方。もしも文字をお読みになられるのでしたら、お力を貸してもらえませんか」  商人も訪《おとず》れないような辺鄙《へんぴ》な村で、文字を読めないかと尋《たず》ねられる。  ロレンスが張り切って椅子《いす》から立ち上がってしまっても、仕方のない幸運だった。 「いい加減にしろ! この間の話し合いの結果を反故《ほご》にするつもりか! 俺の畑は六ヒーヘンだ!」 「あんなものはいかさまだ! 俺だって確かに六ヒーヘンだと言われた。お前は五ヒーヘンのはずだ。それがなぜ俺の畑のほうが小さいんだ! こんな柵《さく》なんか作りやがって——」  事情を説明されるまでもなく、二人の怒鳴《どな》り合いを遠くから聞くだけでどういったことで揉《も》めているのかすぐにわかった。  また、ヒーヘンという単位から、彼らがどこから来たのかもおおよその見当がつく。  レヴァリアと呼ばれる森と泉の国に、かつて賢公《けんこう》と呼ばれたヒーヘン二世なる王がいた。  彼は領地内の検地をするに当たって、自分の両|腕《うで》を左右に目《め》一杯《いっぱい》伸《の》ばした時の単位を一ヒーヘンとしたのだ。  もっとも、賢公の定めた賢明なる単位を以《もっ》てしても、土地を巡《めぐ》る争いは尽《つ》きないものだ。  怒鳴《どな》り合う二人を前に村長は言葉もなくおろおろとしているだげ。  長い伝統に支えられている村ならばともかく、新興の村には権威《けんい》というものがない。  水掛《みずか》け論《ろん》をやめさせるには、理屈《りくつ》を超《こ》えた裁定を下すための権威がなければなかなか難しい。 「村長、お連れしました」 「お、おお……」  困り果てたといった様子の村長は、ロレンスを見るや助けを求めるようにため息を漏《も》らした。 「まったくお恥《は》ずかしいことなのですが」 「土地の割り当てを巡《めぐ》って、ですね?」  いくつも村を回って行商をしていれば、そこで起きる問題のほとんどに巡り合う。  それでも村長はロレンスのことを慧眼《けいがん》の持ち主だとでも思ったのか、「その通りでございます」と平伏《へいふく》せんばかりだった。 「ここは、実はさる貴族様から申し付けられて興《おこ》すことになった村なのでございますが、その時決まった土地の大きさを巡って争いが絶えんのです……いつもは話し合いで片づけるのですが、特に彼らだけ昔から遺恨《いこん》があるらしく……」  怒鳴《どな》り合いは多少でも筋の通った言い合いから、段々と侮蔑《ぶべつ》の言葉のぶつけ合いに変わっている。  村人たちはうんざりと遠巻きに、ホロだけが楽しそうに眺《なが》めていた。 「では、土地の権利書の写しがあるはずでは?」  文字が読めないか、と聞かれたのもそれが理由のはず。  ロレンスが問うと、村長はうなずいて、懐《ふところ》から一枚の羊皮紙を取り出した。 「こちらなのですが、我々の中には誰《だれ》もこれを読める者がおりませんで……」  一人も文字が読める人間のいない村は、鍵《かぎ》のかからない宝箱と同様だ。  商人は契約《けいやく》を文字に変える。  では、その契約が読めない相手に、どうしていつまでも正直でいられよう? 「ちょっと拝見させていただきます」  そういった村々はそもそも数が少ないし、そこに最初に訪《おとず》れられる幸運な商人の数はもっと限られる。  ロレンスは厳粛《げんしゅく》な面持《おもも》ちで羊皮紙を受け取りながら、心のうちは踊《おど》り出さんばかりだった。 「……ああ、これは……」  ただ、羊皮紙を見た瞬間《しゅんかん》、さすがにそこまで世の中甘くない、と口元が笑ってしまっていた。  村長が目をしばたかせるが、ロレンスはすぐ苦笑いに変える。  誰《だれ》も読めなくて当然だ。  羊皮紙には、聖なる教会文字で土地の割り当てが記されていたのだから。 「私たちの中にも多少は文字が読める者はおるのですが、こればっかりは誰もわかりませんで……どこぞの異国の文字なのかと思うのですが」 「いえ、これは教会で用いられる特別な文字です。私も決まった慣用句と数字くらいしかわからないのですが……」  教会文字で書かれた土地の権利書、特権の証明書の類《たぐい》は何度か見たことがある。  隣《となり》からホロが覗《のぞ》き込んでくるが、ホロにも読めなかったらしい。  すぐに興味をなくして、再び二人の怒鳴《どな》り合いを眺《なが》めていた。 「そうですね。揉《も》めている原因がわかりました」  二度ほど文面を読みなおして、ロレンスは結論づける。  そして、それを確かめるために質問をしてみた。 「もしかして、あの二人、元々は職人かなにかでは?」  ついに取っ組み合いの喧嘩《けんか》をし出して、ホロがフードの下でにやにやと笑うなか、ようやく村人たちが止めに入った。  村長は自分も行くべきかとそわそわしながら、ロレンスの質問を聞くやびっくりしたように振《ふ》り向いた。 「そ、その通りです。ですが、なぜそれを……」 「土地の割り当てはどちらも六ヒーヘン。これは間違《まちが》いありません。ですが、ここ……」  ロレンスは言いながら、一つの単語を指差した。  村長は目を細めて見るが、元々読めない文字の単語なので、そうしたところでわかるはずもない。 「羊の囲い、とあります。その広さが、片方は六ヒーヘン。もう片方が五ヒーヘンです」  村長はしばしぼんやりと羊皮紙の文面を眺め、やがて合点《がてん》が行ったらしい。  固く目をつぶると、禿《は》げ上がった額をぴしゃりと叩《たた》いて、「なるほど」とうめくように呟《つぶや》いた。 「そうか、連中は羊の囲いを知らなかったのか……」  土地の割り当ては村人にとって重要なこと。  新天地への出発の前に、文字の読めない者は内容を読み上げて聞かせてもらったに違いない。  しかし、その時に今までは土いじりなどしたことのなかった者が突然《とつぜん》専門の用語を言われたらどうなるか。  印象に残るのは数字だけ。  だからこそ、どちらも引かずにああやって争うことになるのだ。 「ハイ・バートン氏は修道院に多少多く寄付されたようですね。羊の囲いが六ヒーヘンなのはバートン氏です」 「バートンならあの左の奴《やつ》です……まったく、そういうことで揉《も》めていたとは……」 「羊の囲い、と言われても縁《えん》がないとわかりませんからね」  羊の囲いは文字通り羊を囲う面積のことだが、そこで羊を飼うわけではない。主な目的は、村や修道院全体が共有する羊を夜の間|柵《さく》の中に入れて、その土地に糞《ふん》をさせて土を肥えさせることだ。  大きい囲いにはたくさんの羊を、小さい囲いには少ない数の羊を入れるのが常識だから、羊の頭数ではなく面積で測られる。それは自分の畑の面積|一杯《いっぱい》であることもあれば、自分の畑の半分にしか羊を入れさせてもらえないこともある。  村長はロレンスに丁重に礼を言い、早速《さっそく》とばかりに二人のほうに小走りに駆《か》けていった。  村人に羽交《はが》い締《じ》めにされている二人に羊皮紙を掲《かか》げながら説明を始めている。  ロレンスがやれやれといった笑顔《えがお》で以《もっ》てそれを眺《なが》めていると、やがて二人は渋《しぶしぶ》々ながら握手《あくしゅ》を交わしていた。 「なんじゃ、あっさりまとまってしまったの」  それを見ながらホロが残念そうに言うくらい、あっさりとしていた。 「記憶《きおく》は間違《まちが》えることが大いにある。しかし、文字はそうではない」  その言葉は、ロレンスが師匠《ししょう》から心得として教えられたことだ。  行商人が町商人に勝てない理由の一つとして、売《う》り掛《か》けや買い掛けの金額を帳簿《ちょうぼ》ではなく記憶《きおく》の中にしまわなければならないことを挙げていた。  揉《も》めた時に勝つのは、いつだって文字なのだ。 「毎回こんな揉め事を起こしていたら商売を拡大《かくだい》することなどできはしないからな。だから、契約《けいやく》書は大事なんだ」  ホロは興味なさそうにロレンスの話を聞き、「ぬしも鶏《ニワトリ》の話を反故《ほご》にしようとしたくらいじゃからな」と恨《うら》めしそうに呟《つぶや》く。 「まあ、そんなもんだ」  ロレンスが答えていると、村長がこちらを振《ふ》り向きゆっくりと頭を下げる。  ロレンスは軽く手を振った。  なるほど、人の役に立つのもそう悪くはないことだと、ロレンスは思ったのだった。  その夜は、村の懸案《けんあん》の一つだった二人の争いをついに解決に導いたということで、鶏一羽を潰《つぶ》して豪快《ごうかい》な丸焼きを振る舞《ま》われた。  もちろん代金など支|払《はら》わず、酒もビールだけだが飲み放題だった。  ホロもさぞご満悦《まんえつ》のことだろう。  ロレンスはそう思っていたのだが、ホロはひとしきり宴会《えんかい》のご馳走《ちそう》を食べ終わると、まるで敬虔《けいけん》な修道女のように早々のお暇《いとま》を告げた。  ロレンスたちのために今晩は一|軒《けん》丸ごと貸してくれるらしく、案内を受けて一足先にそちらに帰ってしまっていた。  旅の疲《つか》れが出て、思いのほか肉料理と酒が重かったのかもしれない。  その可能性が否定しきれなかったので、ロレンスも失礼にならない程度に宴会に参加してからその家に戻《もど》った。  真冬の旅路の三日目というのは、体が旅に慣れるか慣れないかの境目で、油断をすると旅なれた者でも容易に体調を崩《くず》す。  何度かすでに体調を崩しているホロのこと。  麦に宿る豊作の神と呼ばれた賢狼《けんろう》であっても、疲労《ひろう》とは無縁《むえん》ではない。  ロレンスが案内された家の扉《とびら》を静かに開けると、中は暗く静まり返っていた。  獣脂《じゅうし》の灯《あか》りを受け取って、ゆっくりと部屋の中に入ると、わざわざしつらえてくれた長持《ながもち》をくっつけた簡易のベッドが土間の真ん中に置かれていた。  普通《ふつう》は地面に藁《わら》を敷いてそこに雑魚寝《ざこね》だろうが、客人|扱《あつか》いということだろう。  ただ、それが一つしかないのはいたし方のないことなのか。はたまた要《い》らぬ気を利《き》かせてくれたのか。  なんにせよ、すでに毛布に包《くる》まって丸まっているホロを前に、ロレンスは小さく口を開いた。 「大丈夫《だいじょうぶ》か?」  寝ていたらそれでいい。  しばらくしても返事はなく、どうやら寝ているらしい。  明日、目が覚めてもまだ様子がおかしかったら、多少金を払《はら》ってここにしばらく泊《と》めてもらおう。  そんなことを考えながら灯りを消して、長持の上に藁を載《の》せて薄《うす》い麻布《あさぬの》を敷《し》いたベッドに潜《もぐ》り込んだ。  ホロを起こさないかとやや心配になったものの、大丈夫だったようだ。  藁とはいえ、荷馬車の荷台よりかははるかに寝|心地《ごこち》が良い。  ただ、仰向《あおむ》けになっても見えるのは天井《てんじょう》と梁《はり》ばかりで、囲炉裏《いろり》の煙《けむり》を逃《に》がす穴から差し込む月明かりが少し目に届くくらいのものだった。  ロレンスは目を閉じ、村の様子を思い返す。  村人の数は三十人から四十人。近くに森と泉があるおかげで、野蜜《のみつ》や木の実、それに魚が豊富で、放牧にも適している。  土地はやや岩が多いことを除けばそれほど痩《や》せているわけでもない。  修道院ができたとして、十分に百人くらいは養うことができる土地だろう。  現時点でこの村にどこかの商人が唾《つば》をつけていないのなら、もうこの村の商取引はロレンスが独占《どくせん》できたようなものだ。  宴会《えんかい》の最中にも、鉄製の農具の話や馬や牛の売買の話も出た。  辺鄙《へんぴ》な土地を貴族が寄付して修道院が建てられる、といった場合、その動機は基本的にその貴族自身か、あるいは近しい者に死期が迫《せま》っていることが大半だ。  勢い、計画は大急ぎで進められ、必要なことすらろくに決めないで着工される。  しかも、この土地を寄付した者たちがこの土地の近くに住んでいる、とは限らない。  土地の権利は紙に記されるせいで、風に吹《ふ》かれる綿毛のように各地を転々と旅することが往々にしてある。そのせいで、見たことも聞いたこともないような遠い土地の人間に寄付されることがごく普通《ふつう》のこととしてある。その結果、つぎはぎだらけの物乞《ものご》いの服のように入り組んだ土地の所有権はいつの時代も紛争《ふんそう》の種になる。  すると、周辺の土地の人間は、争いに巻き込まれるのを恐《おそ》れてそういった土地に移り住む新しい住人たちと接触《せっしょく》を持たないことがままあったりする。この村はその典型だったようで、最寄《もより》の町や村の商人が及《およ》び腰《ごし》になって取引をしたがらないと聞いた。青年が鶏《ニワトリ》とビールを持って人通りのない街道《かいどう》に座っていたのも、苦肉の策だったと村長は語っていた。  ロレンスにとっては渡《わた》りに船。彼らにとっては神の使いというわけだ。  そうなれば、大して酒を飲んでいないのに顔がにやけてしまうのも無理からぬこと。一人で行商をしている時に、多々夢見た事態が目の前にある。  さて、一体どれほどの儲《もうけ》けになるだろうか。  夜が更《ふ》けていくなかで、頭だけはどんどん冴《さ》えていく。  宴会で出されたビールよりも、皮算用に酔《よ》い始めた頃《ころ》だった。 「まったく、呆《あき》れた雄《おす》じゃな」  もそりとホロが動いたかと思うと、ため息まじりにそんなことを言った。 「ん、なんだ、起きてたのか」 「ぬしがにやにや笑う音で起きてしまいんす」  言われ、つい自分の顔を撫《な》でてしまう。 「わっちがおかしな様子で宴会から引き上げても、ろくに心配もせずに、にやにやにやにやと……」  自分からそう言うからにはあれはわざとだったようだ。  ただ、指摘《してき》すれば怒《おこ》り出しかねない雰囲気《ふんいき》に、ロレンスは言葉を選んで口にした。 「お前の声が元気そうで、どれだけほっとしているかわからないのか?」  同じ毛布の中で、ホロの尻尾《しっぽ》がもそりと動く。  しかし、人の嘘《うそ》を見抜《ぬ》けるホロは、ロレンスの頬《ほお》をつねって牙《きば》を剥《む》いた。 「たわけ」  どんな返答をしようと絶対に怒《おこ》っただろうが、まだしもましだったようだ。  ホロは不貞腐《ふてくさ》れるように寝返《ねがえ》りを打って反対|側《がわ》を向いた。  こんなにわかりやすい態度を取るのだから、実際は大して怒っていない。 「なんでさっさと引き上げたんだ? ビールも鶏《トリ》もいい出来だったろう?」  特にビールは特別なものを出され、その言に相応《ふさわ》しく素晴《すば》らしい出来だった。聞けば特別な香草《こうそう》を乾燥《かんそう》させ、それを砕《くだ》いた粉末を入れているらしい。  鶏は脂《あぶら》が滴《したた》るほどのものだったし、なにが不満なのか。  ホロはしばし返事を返さない。  小さく、うめくように口を開いたのは、かなりの間をあげてからのことだった。 「ぬしにはあのビールがうまかったのかや」 「え?」  ロレンスが聞き返してしまったのは、ホロの声が小さかったからではない。 「わっちにはとても飲めぬ。あんな臭《くさ》いものをうまそうに飲むとはとても信じられぬ」  もちろん人にはそれぞれ好みがあるので、あの芳《かぐわ》しい香《かお》りがあまり好きではない、ということがあってもおかしくはない。  しかし、それではホロがこんな怒っているような、それでいて悲しそうに言う理由がわからない。  ロレンスはやや視線を泳がせてから、すぐ側《そば》にいるホロが泡《あわ》のように弾《はじ》けてしまわないように、ゆっくりと、声をかけた。 「あれは、あの人たちの故郷の香草を入れているらしい。独特な香りだからな。それを気に入る人たちが素晴らしいと思う以上に、嫌《きら》いな人にはその逆に——」 「たわけ」  毛布の下で足を蹴《け》られ、ホロがこちらを向いた。  その顔が妙《みょう》に歪《ゆが》んで見えたのは、天窓から差し込む月明かりのせいで顔に陰《かげ》ができているから、というわけではなさそうだった。  こういう時、ホロはいつも言いたいことを喉《のど》の奥で引っかからせている。  そして、その理由をロレンスがわからないのもまた、いつものことだった。 「もうよい!」  ホロは最後に言って、反対側を向いて丸まってしまう。  荷馬車の上ではいつも足の上に乗せてくれる尻尾《しっぽ》どころか、共用の毛布までほとんど持っていってしまった。  聞く耳を持ってくれそうにないのは、伏《ふ》せられた耳から察することができる。  ロレンスになにか気がついて欲しかったらしいというのは、その背中からわかった。 「……」  よもやビールが好みに合わなかったから不機嫌《ふきげん》、というわけではないだろう。ビールの話を持ち出したのはきっと怒《おこ》るためのきっかけにしたにすぎない。  街道《かいどう》沿いで青年と出会ってからこっち、少し村との取引の皮算用に夢中になりすぎていたのかもしれない、と反省する。  犬と共に猟《りょう》をする狩人《かりうど》によくあることらしいが、狩人が花嫁《はなよめ》を迎《むか》えると犬は相当に嫉妬《しっと》するらしい。  ホロに限ってそんなことはない、とは思えなくもないと考えてしまうのは、ホロが言うようにたわけた雄《おす》の考えなのだろうか。  ちらりとホロの後ろ姿を横目で盗《ぬす》み見て、頭を掻《か》く。  なんにせよ、明日からはもう少しホロに注意したほうがいいだろう。  この狼《オオカミ》は、山の森に相応《ふさわ》しい天気の変わりやすさなのだから。  真冬に雨がそぼ降る中、商品に毛布を掛《か》けて自分はただ両|腕《うで》で体をかき抱《いだ》くだけ。そしてそのまま一晩を過ごす、という経験に比べれば、屋根のある場所で藁《わら》と麻布《あさぬの》が敷《し》かれたベッドの上で眠《ねむ》れるのはそれだけでずいぶんましだ。  明け方、相変わらずのくしゃみで目を覚ましてから、ロレンスは己《おのれ》の現状を憂《うれ》う前にそう思い、なんとか自分を納得《なっとく》させた。  隣《となり》ではホロが毛布に包《くる》まってぬくぬくと眠《ねむ》っており、間抜《まぬ》けな寝息《ねいき》を立てている。  着干《じゃっかん》怒《いか》りを覚えないでもない。  しかし、その寝顔を見たら、ロレンスは小さなため息と共に静かにベッドから下りざるを得ない。  家といっても泥《どろ》で穴をふさいであるような農村の建物だ。  吐《は》く息は白く、軽く体を動かすと寒さで強張《こわば》った体がぎしぎしと軋《きし》んだ。  床《ゆか》が木ではなく土だったのはやや幸運だったかもしれない。  ホロを起こさずに外に出て、今日もよく晴れるであろう早朝の空に向かって大|欠伸《あくび》をした。  井戸の周りではすでに入が水を汲《く》んでいるらしく、遠くからは牛と豚《ブタ》、それに羊の鳴き声も聞こえてくる。  絵に描《か》いたような勤勉な村。  こうなると、朝食はちょっと期待できないかもしれない。  ロレンスは苦笑いをして、そんなことを思ったのだった。  結局ホロが目を覚ましたのは昼も近くなってからのことで、普通《ふつう》ならば村では白い目で見られるような時間だ。  それでも皆《みな》が笑顔《えがお》だったのは、ここが植民の村だからかもしれない。  村人のほとんどが、家財一式と家畜《かちく》を連れての長い旅路を経験している。  旅人には旅人の時間の流れがあるとわかっている。  ただ、朝食が出なかったのは予想通りだった。  物にあふれている町でさえ贅沢《ぜいたく》とみなされるのだから、質素で勤勉な、修道院を支えるための村で出るわけがない。 「で、ぬしはなにをしておるのかや」  もしかしたらホロは朝食が出ないことを見|越《こ》して昼近くまで寝《ね》ていたのかもしれない。  ホロが手にしているのは、冬を越すために潰《つぶ》された豚《ブタ》の腸詰《ちょうづめ》を、茄《ゆ》でて薄《うす》く切ってライ麦パンに挟《はさ》んだもの。  ただで貰《もら》うには気が引けてしまうような昼食だが、生憎《あいにく》とその心配はなかった。  もぐもぐと口を動かしながらロレンスの手元をホロが覗《のぞ》き込んでいるのは、ロレンスが任された仕事に精を出しているからだ。  パンをばくつきながらビールを飲むホロに言いたいことは色々あったが、ひとまず昨晩の不機嫌《ふきげん》さは持ち越されていないようなのでへたに波風を立てることもない。  と、恐《おそ》らくはこういう考えがホロを甘やかすことになるのだろうが、ロレンスは諸々《もろもろ》の小言の代わりに、ホロの質問に答えた。 「翻訳《ほんやく》だよ」 「翻……やふ?」  物を食べながら話すな、という注意すら馬鹿《ばか》らしい。  口の端《はし》につけたパンのかけらを取ってやりながら、ロレンスはうなずいた。 「昨日みたいな揉《も》め事《ごと》が起こらないようにな、このややこしい教会文字を、慣れ親しんだ文字に替《か》えてくれ、と」  町で頼《たの》めば結構な金額を取られるような仕事だ。  もっとも、料金を取らない代わりに、ロレンスのほうも教会文字の正確な翻訳が行えているかどうかの保証はできない。 「ふーん……」  ホロはなにか考えるように半眼で机の上の羊皮紙と翻訳先の木の板を眺《なが》め、やがて興味をなくしたようにビールを飲んだ。 「ま、ぬしが働いてくれればわっちは気兼《きが》ねなく飲み食いできるというものじゃ」  笑顔も引きつってしまうような憎《にく》まれ口を残して、ホロは最後のひとかけらを口に放《ほう》り込む  と、ロレンスの側《そば》から離《はな》れていった。 「俺には気兼ねくらいしてもらいたいものだがな」  ホロの背中に向けてやれやれとため息まじりに呟《つぶや》いて、再び仕事に戻《もど》ろうとして気がついた。 「おい、俺の分を——」  ロレンスがそう言った時には、すでにホロは二つ目のパンをかじっていた。 「そんな怖《こわ》い顔するでない。軽い冗談《じょうだん》ではないかや」 「なら、どうしてパンがこんなに減っているんだ?」 「ぬしにならねだっても平気だと思ったんじゃ」 「それは光栄ですな」  殊更《ことさら》に嫌味《いやみ》ったらしく言ってやると、ホロは少し不機嫌《ふきげん》そうに、ロレンスが仕事をしている机に腰掛《こしか》けた。  ホロなりに甘えていたつもりなのか、と思った直後、意地悪な笑顔《えがお》でロレンスのことを見下ろしてきた。 「なら、次からは村の連中にねだることにするかや。旦那《だんな》様、旦那様、どうかわっちにパンをお恵《めぐ》みを……」  そんなことをされたら誰《だれ》が困るのかは言うまでもない。  しかし、ここで引いたらさすがに甘やかしすぎだ。 「一体お前は何人分食べるつもりなんだ?」  鼻《はな》っ面《つら》を叩《たた》くように短く言い放って、ホロの魔《ま》の手から救い出したパンにかぶりつき仕事に戻る。  ホロはつまらなさそうに顎《あご》を引いてため息を一つ。  ため息をつきたいのはこっちのほうだ。  ロレンスがそう思った直後だった。 「ま、わっちが村人にその質問をされたとしたら、お腹《なか》を押さえてこう答えるじゃろうな」  相手をしたら負け。  耳に栓《せん》をするつもりでペンを取った。 「そう……きっと二人分」  ホロが身をかがめ、ロレンスの耳元で言った。  思わずパンを吹《ふ》き出してしまったのは、決して大袈裟《おおげさ》な反応ではないはずだ。  ホロは意地悪げな顔でけたけた大笑いし、「なんじゃ。わっちが二人分の大飯食らいだと初めて知ったのかや?」とわざとらしく聞いてくる。  交渉事《こうしょうごと》においては持てる限りの全《すべ》ての武器を使える者が最後の勝者となる。  それにしたって、ホロは武器を使いすぎだ。  これ以上一言だってホロの言葉を聞くものかと、ロレンスが吹き出したパンのかけらを木の板の上から払《はら》っていると、ホロの手が伸《の》びてきてパンの間から腸詰《ちょうづめ》を一切れ奪《うば》っていった。 「くふ。ま、ぬしよ、朝からずっと机に座っておるからそんな眉間《みけん》に皺《しわ》が寄るんじゃ。外に出て冷たい空気でも吸ってくればよい」  ホロの言葉をその通りに解釈《かいしゃく》してしまいがちだった旅の初めの頃《ころ》ならば、大きなお世話だ、と返事をして怒《いか》りを買うところだ。  ロレンスはしばし沈黙《ちんもく》し、目を閉じて椅子《いす》の背もたれに体を預けた。  そして、降参を示すように手を肩《かた》の高さに上げ、こう言った。 「収穫《しゅうかく》の終わった畑に麦|粒《つぶ》が落ちていても困るからな」 「んむ。わっちがここの麦を気に入らんとも限らぬ」  麦に宿るというホロならではの冗談《じょうだん》だ。  ローブのフードを被《かぶ》り、わさわさ揺《ゆ》れる尻尾《しっぽ》を隠《かく》し、ホロは先回りして扉《とびら》に手をかける。 「確かに気に入られたら困る。拾い食いされたら敵《かな》わないからな」  ロレンスが言うと、ホロはむっと頬《ほお》を膨《ふく》らませて、ロレンスが手に持っていたパンにかぶりついたのだった。  のんびり村を見て回る、というのもこれはこれでいいかもしれない。  それに、ホロとしてはこんなにも普通《ふつう》の村というのはパスロエの村を出て以来久しぶりのことだろう。  そこからはあまりいい旅立ち方をしなかったとはいえ、やっぱり農村には慣れ親しんだ雰囲気《ふんいき》というものがあるのかもしれない。  パスロエの村でもよく見られた、肥料のための藁束《わらたば》や土のついたままの農具などをにこにこしながら眺《なが》めていた。 「町と交流がないから、この時期でも豆を蒔《ま》くらしいな」  普通ならばこの時期は農作業の手を休めて、代わりに糸を縒《よ》ったり布を織ったり、さもなくば木を削《けず》った加工品を作ったりと、屋内での仕事が多いはずなのだが、ここではそうでもないようだった。  最寄《もより》の町でも荷馬車で三日かかり、しかも後難を恐《おそ》れて取引を断られているようなところなのだ。  食料の確保が最優先|事項《じこう》で、他《ほか》のことはひとまず後回しなのだろう。 「豆は大地が疲《つか》れた時によいからの。もっとも、ここはしばらくはそんな細かいこと気にせんでも色々とよく実りそうじゃが」  集落の外れまではもちろんあっという間で、そこからは見渡《わた》す限りに畑が続いている、というのはさすがに大袈裟《おおげさ》でも、この人数でよくここまで広げたものだと感心するくらいにはある。  柵《さく》や溝《みぞ》がないのは、おそらく共同の畑なのだろう。  今も泉の方角に向かって作業をする人影《ひとかげ》がいくつかあり、用水路を掘《ほ》っているのだろうと見当がついた。  なるほど、嘘《うそ》も方便とはいうが、ホロの言うとおり外に出たお陰《かげ》で眉間《みけん》から皺《しわ》は消えそうだった。 「で、ぬしはこの村からいくら搾《しぼ》り取れそうなんじゃ?」  村を囲む、今にも倒《たお》れそうに見えた柵《さく》は思いのほか丈夫《じょうぶ》だった。  ホロが腰掛《こしか》けたのでロレンスもその隣《となり》に腰掛け、こちらに気がついた畑の中の村人に手を振《ふ》り返してから、ようやくホロを見る。 「人聞きが悪いな」 「昨日のぬしの顔のほうがよほど悪そうじゃったが?」  もしかして、昨晩ホロが不機嫌《ふきげん》だったのはロレンスがあまりにも欲に目がくらんでいたからか、と思ったのも一瞬《いっしゅん》のこと。  ホロは楽しそうに喋《しゃべ》っているので、それはないだろう。 「物と物が交換《こうかん》されるだけで利益は勝手に生まれてくる。わざわざ搾らなくても滴《したた》ってくるのなら、なめるだけでいい」 「ふむ……ぶどう酒みたいじゃな」  皮袋《かわぶくろ》や布にブドウを詰《つ》めて、軒先《のきさき》からつるして造るぶどう酒のことを言っているのだろう。  自然の重みでブドウが潰《つぶ》れ、滴ってくるブドウの果汁《かじゅう》だけで作るので、そのうまさといったら比類ない。  相変わらず飲み食いに関しては上等な知識を持っている狼《オオカミ》だ。 「今回は特にお前の手も借りず、儲《もう》けになりそうだ。道の途中《とちゅう》で予想外に出会った儲け話にしては、ちょっと額が大きい。それこそ、お前がたらふく鶏《トリ》を食べたとしても、な」  風が軽く吹《ふ》き、遠くから牛の鳴き声が聞こえてくる。  静かだな、と思う間もなく、後ろからはけたたましい鶏《ニワトリ》の鳴き声が聞こえてきた。 「ま、なんだかんだと俺はお前の手を借りてるからな。たまにはこういうのもいいだろう?」  取らぬなんとやらの皮算用ではあるが、これくらいは許されるだろう。  それに、実際のところ、帳簿《ちょうぼ》をつけてみればきっとホロが飲み食いしている金額よりも、ホロのお陰で助かったり儲けた金額のほうが圧倒《あっとう》的に大きい。  言葉に嘘はなく、たまには気兼《きが》ねなく飲み食いして欲しかった。 「ぬしは」 「ん?」 「ぬしは、本当にわっちがそれで気兼ねしないとでも?」  時間が止まったのでは、と思ったのは、単純にその瞬間《しゅんかん》、ロレンスの頭が一つのことだけを考えていたからだ。 「お前、それで昨晩|怒《おこ》ってたのか……?」  あれやこれやとねだっては、なんだかんだでねだりっぱなしではないホロ。  きちんと浪費《ろうひ》した分は取り返すし、旅の途上《とじょう》では陰《いん》に陽《よう》に一致《いっち》協力する。  ホロが神と呼ばれることを恐《おそ》れたのは、自分だけが特別な存在に祭り上げられるのが嫌《いや》だったからではなかったか。  だとすれば、ロレンスの気遣《きづか》いは逆効果だったかもしれない。 「気にすることではないと思う……というのが俺の考えだが。うん。お前は義理|堅《がた》いからな」  その言葉に、ホロは恨《うら》めしそうな目を向けてくる。  いちいちわっちの口から言わせないとわからんのか、と言いたげだった。 「ふん。わっちゃあ無知な狼《オオカミ》じゃから、なんたらいう文字も読めんしの」  ただでさえ出る幕がなさそうでやきもきしているところに、目を覚ましたらロレンスが机にかじりついている。  ホロからすれば、嫌がらせにすら映ったかもしれない。 「ああ、それならそうだ」 「?」  ホロが表情を緩《ゆる》めてこちらを見る。  ロレンスは笑いながら、言ってやった。 「麦の栽培《さいばい》について助言でもしてやればいい」  怒《おこ》るか怒るまいか判断しづらい際《きわ》どい冗談《じょうだん》だったらしい。  ホロは複雑な顔をして、結局|頼《ほお》を膨《ふく》らませてそっぽを向いた。 「ちょっとした知識でも喜ばれるだろうさ。羊の囲いの存在すら知らないようなのが畑に入っているんだ。なにかないのか?」  そして、ロレンスはそのあとに「彼らが喜べば、それだけ俺の商売も進めやすくなるし」と付け加える。  ホロが泣きそうな顔でこちらを振《ふ》り向いたのは、ずるい手を使うな、ということなのだろう。 「む……う……」 「そんな考え込まなくても、なんかちょっとしたことでないのか」  ロレンスが笑って言うと、ホロはついに目を閉じて考える。  眉間《みけん》に皺《しわ》が寄り、耳がばたばたフードの下で動いている。  まったく、本当に義理堅い。  ロレンスが笑ったまま、そんなホロから視線をそらし、空を飛ぶ鳥をのんびり眺《なが》めていた頃《ころ》だった。 「ロレンスさん」  遠くから自分の名を呼ぶ声に、視線を村の中へと戻《もど》した。 「ロレンスさん」  声は後ろからで、振《ふ》り向けば村長だった。 「あ、すみません。まだ翻訳《ほんやく》は……」 「いえ、いえ、その話ではございません。そのお仕事を頼《たの》ませていただいているうえに、大変心苦しいのですが折り入ってご相談が……」 「相談?」  はやる気持ちを抑《おさ》える必要があったのは、物資の調達に困っているという村の事情があるため。  ロレンスがホロに視線をちらりと向けると、ホロは面白《おもしろ》くなさそうに仏頂面《ぶっちょうづら》だった。 「私にできることでしたらなんなりと」  しかし、ここで笑顔《えがお》が見せられなければ嘘《うそ》だ。  ロレンスはとびきりの笑顔と共にそう言うと、村長はほっとしたようにこう言った。 「左様ですか。ありがたいことです。実は、最近になって村では昨日のような土地の問題が多く起こってきておるのです。それで、お知恵《ちえ》を拝借させていただければと……」 「……知恵?」  笑顔のまま聞き返すロレンスに、村長は心底困り果てた顔で、難しい問題を口にしたのだった。  未《いま》だ翻訳|途中《とちゅう》の羊皮紙と木の板を前に、ロレンスは頭を抱《かか》えて悩《なや》んでいた。  村長が持ってきた相談は、どこの村でも共通のものといえばそうだった。  しかし、普通《ふつう》の村には長年に亘《わた》って積み重ねられてきた村独自の問題解決方法というものがある。それは神からのこ宣託《せんたく》であったり、村長の権威《けんい》であったり、近隣《きんりん》領主の証明書や、逆らうことは許されない村の共同会議だったりする。  それが、この村にはそういったものがほとんどない。  新しい村ができては解散する原因が、人々をまとめる強力ななにかが欠けていることだというのはままあることだ。  そうした難しい状況《じょうきょう》の中で、ロレンスが持ちかけられた相談は、やはり土地の分割に関する問題だった。  村の領域は領主から大雑把《おおざっぱ》に決められているだけで、その中で各自がそれぞれ決められた大きさに分割するようにと定められている。  しかし、そこで問題があった。  決められているのは大きさだけで、土地のどこを基準点にするとは書かれていなかったのだ。 「それで、ことここに至るまで好き勝手に決めておったが、問題が起こり始めてきていいかげんに基準点を決めんと大変なことになる、と」 「ああ。村を興《おこ》したばかりで土地がいくらでもある状況《じょうきょう》なら問題はないがな。基準点を決めないで好き勝手に土地を分割していくと、実際に図を描《か》いてみればすぐにわかるんだが、誰《だれ》のものかわからない小さな土地があっちこっちにできる」 「図に描くよりも、わっちゃあ薄焼《うすや》きのパンを割ってたとえるほうがよい」  机に腰掛《こしか》けているホロは楽しげに言った。 「燕麦《エンバク》パンか? あんな硬《かた》いもの、おいしくないだろ」 「うまいかどうかと聞かれるとうまくありんせんが、歯ごたえはたまらぬ。わっちゃあ、たまにこの歯がうずいてしまっての……」  にっ、と鋭《するど》い牙《きば》を見せるホロに、ロレンスは若干《じゃっかん》たじろいでしまう。 「なんじゃ、わっちの牙よりもぬしの牙のほうがよほど恐《おそ》ろしいと思うがな」 「え?」  ロレンスが無防備に聞き返すと、ホロは自分の胸に手を当てて、こう言ったのだった。 「わっちゃあぬしの毒牙《どくが》にかかってしまいんす」  外を走り回る鶏《ニワトリ》の鳴き声を三度聞いてから、ロレンスが返事もせず再び頭を抱《かか》え出すと、ホロはむすっとしてロレンスの足を蹴《け》ってきた。 「わっちとの話よりもそっちのほうが大事じゃと言うのかや」 「当たり前だ」 「なっ」  思わず言い返してしまい、ホロが目を見開いて耳をぴんと張った直後、ロレンスは自分の失言に気がついた。 「い、いや、ここで村長らの期待に応《こた》えられないと、恩を売れないだろう? 金儲《かねもう》けの好機はその場限りだが、お前との会話はあとでいくらでも——」 「わっちの好意もこの場限りではないとよいな!」  ホロは言い放ち、そっぽを向いてしまう。  その場限りの連中相手にならばいくらでも八方美人を続けられる自信はあるものの。ホロには上辺《うわべ》の対応では通用しない。  ただ、村長がせっかく村の重大事を決めるような案件を自分に振《ふ》ってくれたのだ。  これに応えられなければ、失望されて取引を一手に担《にな》えなくなるかもしれない。  愛は金で買えないかもしれないが、恩で金は買えるのだから。 「……」  ロレンスは、ホロにかける言葉も見つからないし、かといって目の前の問題を考えないわけにもいかないし、文字通り途方《とほう》に暮れて机の前で言葉を失ってしまう。  行商人を一人でやっている時には、こんな問題に直面することはあり得なかった。  師匠《ししょう》だってこんな難問の解き方を教えてはくれなかった。  しかし、あれこれを天秤《てんびん》にかければ、どれが一番重いかはわかりきっていること。  ロレンスがそう決心して、口を開こうとした瞬間《しゅんかん》だった。 「ぬしは本当にたわけじゃ。学習能力というものが皆無《かいむ》ではないかと思うことすらある」  机に座っているホロは、もちろんロレンスよりも目線が高い。  そこでこんな高圧的なことを言われたら多少はむっとくるのが自然な反応だ。  それでも、ホロの赤みがかった琥珀《こはく》色の瞳《ひとみ》は反論を許さない色に染まっている。  それは理屈《りくつ》ではない。  ホロと共に旅をしてきたうえで得た、経験則だ。 「わっちゃあさっきなんと言った? こっぱずかしいのを我慢《がまん》してぬしになんと言った? わっちが隣《となり》におるのに一人で頭を悩《なや》ませておって……」 「あ……」  まったく、本当につい今しがたのやり取りだ。  ホロは出る幕がないから気兼《きが》ねしていたのに、またしてもロレンスは一人で頭を抱《かか》えていた。  ホロが恨《うら》めしそうな目でこちらを睨《にら》んでくる。  ロレンスに必要なことは、謝ることよりも、こう尋《たず》ねることだ。 「お前の、知恵《ちえ》を、借りられないか?」  やや言葉が詰《つ》まってしまって、ホロは半眼の仏頂面《ぶっちょうづら》でじっとこちらを睨んでくる。  ホロの尻尾《しっぽ》が、拒絶《きょぜつ》と許容の天秤の針のように右に左にと小さく揺《ゆ》れている。  そして、結論はホロのため息と共に吐《は》き出された。 「一番のたわけはわっち自身なのかもしれぬ」  どういう意味だ、と思う間もなくホロが言葉を続けたので、ロレンスは背筋を伸《の》ばして拝聴《はいちょう》した。 「ふん。まあ、わっちの知恵とやらは、あの腹の立つパスロエの村で使われておった方法じゃがな」 「……石碑《せきひ》や木などの目印は移動させられる恐《おそ》れがあるから採用できない。文書で基準点を定めても、そもそもその基準を定めるのが不可能だから言い争いの原因になる」  もちろん完璧《かんぺき》な方法など神でなければ用いることはできないだろうが、要は皆《みな》がその正しさと普遍《ふへん》性を納得《なっとく》できる方法を提示できればよい。  それに、わざわざ聞かれているのに至極《しごく》当たり前のことしか答えられないのでは失望を誘《さそ》いかねない。  ロレンスは、それで、もしやホロがその真の姿を晒《さら》すのでは、と思ったところを、小突《こづ》かれた。 「たわけ。わっちがなぜパスロエの村でべそをかいておったのか忘れたかや」  神からのお告げ、という方法ではないらしい。  だとすると、残るは村人全員を集めてここが基準点だと皆《みな》の記憶《きおく》に植え付けるくらいだろうか。 「しかし、どうするんだ? 星の運行に通じた人間でもない限り正確に東西南北だって測れやしない。もちろん、船乗りみたいに山や泉なんかを目印にしたりはできるが……その目印を文書にしたためるのは不可能だ。それで作られる地図はあまりにも大雑把《おおざっぱ》すぎる」  旅人が旅をする時に使う程度の大雑把な地図ならば問題はない。  今必要とされているのは、村の土地の割り当てに使えるほどの正確さを持つ記録だ。 「ぬしは昨日の揉《も》め事《ごと》の時、人の記憶は曖昧《あいまい》じゃと言ったな?」 「え? あ、ああ。だから、文書にしたためる」 「ふむ。文字にされれば誰《だれ》が見ても変化がないから皆が信用する、というのはわっちもわかりんす。じゃが、人の記憶はそれほど曖昧なのかや?」  ホロの言葉の向く方向がわからない。  それでも、ロレンスはこう答えるしかない。 「少なくとも、人と人が対立している時に、誰かの記憶に頼《たよ》って物事を決めるのは客観性に欠けやすい。しかも、土地の分割の話は、何年、あるいは何十年もあとまで記録が残らないといけない」  ホロはその反論にしばし真摯《しんし》に耳を傾《かたむ》けて、「そうじゃろうな」と答えた。  そして、その上で、こう言ったのだった。 「じゃが、こんな方法を取るとしたらどうじゃ?」  ホロは少し楽しそうに、ロレンスの耳元に口を近づけてその方法とやらを囁《ささや》いた。  ロレンスが驚《おどろ》いてホロの顔を見つめなおすと、賢狼《けんろう》は楽しそうに首を振《ふ》る。 「ぬしの言ったとおりに山や泉や丘《おか》といった大きな目印は大雑把じゃが、いくつかを組み合わせればかなり正確に場所を特定することができる。山におった時も、尾根《おね》から周りを見て自分がどこにおるか正確にわかったものじゃ」  それは村人だってわかっているだろう。  しかし、それを書き留める方法がないからこそ揉めることになる。  土地の境界を定める時に人々が感情的になりやすいのも、その歯がゆさ故《ゆえ》だ。 「ところが、誰しもが納得《なっとく》する忘れられぬ記憶、というのは実際にはあるものじゃ」  ホロが言ったその方法なら、確かに全員が納得できそうだ。  どの道ロレンスには良い案がない。  椅子《いす》から立ち上がって、ホロの手を取ったのだった。  記録の問題はいつだって難しい。  ホロの故郷であるヨイツの話も、文字にされ、石の壁《かべ》の中や暗い地下室の中に誰《だれ》かが大事に保存していたからこそなんとか残っている、というところがある。  しかも、そんなことができるのはごく一部の人間たちだけであり、それにしても何百年と残るかどうかは神のみぞ知るところとなる。  それが口承となればどれほど曖昧《あいまい》なものになるかは、口角《こうかく》泡《あわ》を飛ばす言い争いの大半が水掛《みずか》け論《ろん》の時点で推《お》して知るべしである。  では方法がないから諦《あきら》めるべきかというと、世の中そんなことでは回らない。  どうにかして方法を編み出し、何十年後に言い争いになった時にも、周りが納得《なっとく》する方法で記録を残そうと人々は知恵《ちえ》を絞《しぼ》る。  ホロがたまたま麦畑の中から見聞きしていたのは、その中の一つだった。 「ロレンスさん、村人たちが集まりました」 「ご苦労様です。それで、代表は」 「はい、神のお導きか、ちょうどよい者が一人おりました」  ロレンスから計画を聞かされた村長は、ロレンスがホロから話を聞いた時とまったく同じ反応をした。  そんな方法が? と驚《おどろ》いて、しかしそれならば、と思いなおす。  特殊《とくしゅ》な技術も道具も費用もかからない。  それでいて、確かにこの方法ならば記録は何十年もはっきりと残るだろうと、周りの人間に大いに納得させることができる。  村長は早速《さっそく》村人たちを、前々から土地の基準点の候補に挙げていたらしい井戸端《いどばた》に集めた。  そして、彼らの中からこの記録を残す代表者を選出してもらう。  諸々《もろもろ》考えた結果、実行役はホロになった。  旅人という特殊《とくしゅ》な立場であり、また、そのほうがより効果が大きくなるだろうということだった。  これから村の基準点を決める、ということだけを知らされて集まった村人たちは、半信半疑の顔つきで事態の推移《すいい》を眺《なが》めている。彼らとて、頭を捻《ひね》って皆《みな》が納得いく方法で村の基準点を決めようと頑張《がんば》ってきたのだからそれも当然だ。  そんな中、村長が選ばれた代表者の肩《かた》に手をかけて、一つ咳払《せきばら》いをした。 「偉大《いだい》なる全知全能の神に対して、我が名と、村の名において宣言する。かねてよりの懸案《けんあん》であった土地の分割について、ここに村の基準点を定めるものとする」  しわがれていてもなお声がよく通るのは、元々広大な畑で牛追いをしていたかららしい。 「諸君らに集まってもらったのはその証人になってもらうためであり、また、何十年後にか、不幸にも争いになった時のために今日という日のことを思い出してもらうためである」  ロレンスはともかく、ホロはずっとうつむいて楚々《そそ》としている。  昨晩も飲食はたしなむ程度だったので、村人たちの認識《にんしき》としては敬虔《けいけん》な修道女となっているらしい。  だとすればやはり実行役はホロが適役だ。  村長がもう一度|咳払《せきばら》いをして、こう言った。 「これから執《と》り行う儀式《ぎしき》は、このお二人の旅の賢人《けんじん》が伝えてくだすった、歴史ある土地の方法である。私は村長として、その儀式の代表者に、彼を推薦《すいせん》する」  そして、村長に背中を押されたのはまだ片手で年齢《ねんれい》が数えられるような少年であった。  くりくりとした目の大きい、綺麗《きれい》な金髪《きんぱつ》が天使を思わせる少年だ。  自分がこれからなにをやるのか、あるいはされるのか、まったく教えてもらっていないというのに、周りは真剣《しんけん》な表情の大人たちがぐるりと囲んでいる。  かちかちに緊張《きんちょう》しているのが一目でわかったが、村長は続けざまに言葉を投げた。 「異論のある者は」  幾人《いくにん》かは互《たが》いに顔を見合わせているものの手は挙がらない。これから執り行う儀式の内容を知らされていないのだから当然ともいえる。  ただ、この儀式のあとに、この方法では不十分だと思う者がいたら意見は受け付ける、とは伝えてある。  ロレンスも村長も、それはないだろう、ということで意見の一致《いっち》をみているのだが。 「では、これより開始する」  誰《だれ》も一言も発しない。  村長は少年の耳元で何事かを一言小さく囁《ささや》いて、ロレンスたちのほうにその背中を押し出した。  少年はたたらを踏《ふ》んで、村長を振《ふ》り返り、それから、こちらを見た。村長が行けと身振りで示すので、少年は恐《おそ》る恐るといった感じでこちらにやってくる。  周りの町や村とあまり交渉《こうしょう》がない村では、大の大人でさえ旅人を怖《こわ》がることがある。  少年はゆっくりこちらに来る途中《とちゅう》、不安げに視線を人垣《ひとがき》の一箇所《いっかしょ》に向けていた。  誰がいるのかはわかっている。少年の母親だ。 「よろしく」  少年が歩み寄ってきて、ロレンスはまずそう言って笑顔《えがお》で手を差し出した。  少年はおずおずとその手を握《にぎ》り、もぐもぐと返答をする。  そして、ロレンスは隣《となり》のホロを示した。  ホロはそこそこ小柄《こがら》なほうだが、少年はもっと背が低い。  ホロがフードを被《かぶ》ってうつむいていても、ここまで近づけばその顔は見える。  少年がびくりと背筋を伸《の》ばし、それから恥《は》ずかしそうに笑ったのは、ホロが微笑《ほほえ》みかけたからだとわかった。  ホロと握手《あくしゅ》する時には、村に若い娘《むすめ》も少女もいないからだろうか、親しみを込めた笑みを顔|一杯《いっぱい》に浮かべていた。 「わっちの名はホロ。ぬしは?」 「あ……ク、クローリィ」 「ん。クローリィ。よい名じゃな」  名を褒《ほ》められ、頭を撫《な》でられるとくすぐったそうに首をすくめている。  もうクローリィの頭には儀式《ぎしき》のことなどないかもしれない。  それくらい嬉《うれ》しそうだった。 「ではクローリィ。これから少し遊びをしよう。んむ、大丈夫《だいじょうぶ》。難しいことではありんせん」  ホロの言葉でようやく自分の立場を思い出したのか、途端《とたん》に顔を強張《こわば》らせる。  しかし、ホロが軽くその小さな体を抱《だ》きしめると、顔に勇気がみなぎってくる。  男の習性は、歳《とし》に関係なく、どうも同じらしい。 「まず、北に向かって祈《いの》る」 「祈る?」 「んむ。なんでもよい。ぬしらは毎日お祈りをするのではないかや?」  ホロは教会の知識を多少でも持っている。  少年はうなずき、ややもするとまだ自分の思い通りに動かない手を組んだ。 「北には北の、南には南の天使や精霊《せいれい》がおる。おいしいものを食べさせてください、とでも祈れば叶《かな》うかもしれん」  ホロのいたずらっぽい笑《え》みに少年は釣《つ》られて笑い、「ほれ」とホロに促《うなが》されると、北に向かって祈《いの》り始めた。 「天使や精霊《せいれい》が願いを聞き届けてくれる時は、その予兆があるものじゃ。大地や、泉の位置と形をよーく覚えて、予兆を見|逃《のが》さんようにな」  ホロの言葉にいちいちうなずき、目を皿のようにしてじっと景色を覚えては、生唾《なまつば》を飲み込みながらお祈りを捧《ささ》げている。  北、東、南、西。  四つの方向|全《すべ》てに祈りを捧げ終わる頃《ころ》には、きっと少年がこの世で知る限りのあらゆるご馳走《ちそう》の名を胸中で唱えたことだろう。 「んむ。ご苦労様。では、クローリィ」  いよいよだ。  クローリィは従順な仔犬《こいぬ》のようにホロのほうを見た。 「天使や精霊様は笑顔が好きじゃ。にっと笑ってみよ」  素直《すなお》な少年は、これ以上ないほどににっこりと歯を見せて笑った。  ひゅ、となにかが風を切ったのはその瞬間《しゅんかん》。  パン! とすごい音がしたのは、その直後だった。 「っ!」  周りで事の推移《すいい》を見守っていた村人たちが、一斉《いっせい》に息を飲んだ音が聞こえた気がする。  全員が全員、度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれてその光景に釘付《くぎづ》けになっていた。  ホロは手をぷらぷらさせて、苦笑い。  手加減なく、本気でやったのだろう。  少年を笑わせたのは舌を噛《か》まないため。  いきなり全力で頬《ほお》を張られた少年は目を点にして、鼻血を拭《ふ》くことも、体を起こすことすら忘れて、つい今しがたまで天使のように優《やさ》しかったホロのことを見つめていた。 「人の記憶《きおく》は暖味《あいまい》でも、一生涯《いっしょうがい》忘れることのできぬ瞬間というものは確かにありんす。勇敢《ゆうかん》な少年クローリィは、きっと何十年後も、今この瞬間のこの場所のこの景色を、決して忘れぬことじゃろうよ」  ホロが村人たちに向かい、笑いながら言うと、最初に起こったのはざわめきだった。  それは彼らがようやく我に返ったからで、すぐさまそれは大騒《おおさわ》ぎになり、やがて笑い声へと変わっていった。  彼らはこの村にやってくる時に、きっと自分たちの住みなれた土地を出てきたはずだ。  新しい土地に向けての旅立ちの前、不安と期待に心|揺《ゆ》さぶられ、村のはずれ、あるいは町のはずれで故郷を振《ふ》り返ったに違《ちが》いない。  それから、北、束、南、西、としっかりと目に焼き付けて、旅立ったに違《ちが》いない。  だから、彼らは尋《たず》ねられればこのように力強く答えることができるはずだ。  自分が故郷を振《ふ》り返るために立ち止まったあの場所を、今でも寸分|違《たが》わず正確に示すことができる、と。 「この儀式《ぎしき》に異議のある者はその手を挙げよ!」  村長が叫《さけ》ぶと、村人たちは一度静まり返り、「ありません!」と声を合わせた。  口々に神とホロの叡智《えいち》に感謝の言葉を捧《ささ》げ、踊《おど》り出す者まで出る。  少年の下《もと》に歩み寄ったのはホロと村長、それに他《ほか》ならぬ母親で、手を取られ、体を起こされると少年はようやく事態が理解できたらしい。  火がついたように泣き出して、立派な恰幅《かっぷく》の母親にすがりついて泣きじゃくった。 「わっちのおった村ではこれを平手ではなく石でやるんじゃがな」  一人だけ、事前に話を聞いていた母親はその言葉に半笑いではあったが、息子《むすこ》が村の重要な記録を残す役目になったことを誇《ほこ》らしく思ってもいるようだ。  ロレンスとホロに、神の名を出しながら感謝の言葉を述べていた。 「んむ。では、これにて一件落着」  ホロは小さい胸を張って、得意げに言ったのだった。  どこの村でも重要な出来事があればその日を特別な日と定めて、宴《うたげ》が開かれるのが常だ。  ジサーズも例外ではなく、その夜は大掛《おおが》かりな宴会《えんかい》となった。  村長には手が腫《は》れ上がるくらいに何度も感謝の握手《あくしゅ》を求められ、ロレンスとホロの名は村の発展に欠かせない人物として語り継《つ》ぐとまで言われた。  この分なら末永い付き合いがこの村とできるに違いない。  ロレンスがその喜びを隠《かく》さず顔に出しながら、宴の準備が整うのを待っ夕暮れ時。  頼《たの》まれていた最後の翻訳《ほんやく》も終えて、椅子《いす》に座りながら大きく伸《の》びをする。  振り向くと、ベッドでのんびりと尻尾《しっぽ》の毛づくろいをしていたホロも、両手を上げて伸びをしていた。 「終わったかや?」 「ああ、なんとかな」 「それなら、あとは心置きなく飲んで騒《さわ》いで、じゃな」 「俺の場合はそのあとに商談が残っているけどな。もちろん」  ロレンスは言葉を切り、わざとらしく胸に手を当て、慇懃《いんぎん》に言った。 「賢明《けんめい》なる旅の伴侶《はんりょ》のお陰《かげ》です」  わざとらしい言葉には、ホロもわざとらしく胸を張って応《こた》えてくる。  もっとも、半分くらいは本気かもしれないが、実際にそれくらいのことだった。  鶏《ニワトリ》数羽といわず、荷馬車に積めるだけのビールを買い込んだっていい。 「またしても俺の借りのほうが大きくなりそうだな。なにで返して欲しい?」  わざと冗談《じょうだん》めかして聞いたのは、明日の商談のことを考えると心が弾《はず》んでしまうからだ。  この村はこれからいくらでも発展の余地がある。  しかも、修道院が建設されれば、場合によっては町にまでなる可能性がある。 「ふむ……なんでもいいのかや?」 「なんでも、と聞かれると怖《こわ》いので返事はできないが、そうだな。銀貨百枚。お前のその上等の服をもう一着、と言われても大丈夫《だいじょうぶ》かもな」  ホロは自分の服をしげしげと見返して目を閉じる。  なにをねだろうかと考えているのだろうが、林檎《リンゴ》だろうか、はたまた桃《モモ》のはちみつ漬《づ》けだろうか。  ぱったぱったとホロの尻尾《しっぽ》が揺《ゆ》れ、やがてなにかに思い至ったらしい。  ただ、表情があまり優《すぐ》れないのは、思いついたものがよほど高価なものだったのかもしれない。 「無理だったら諦《あきら》めるんじゃがな」 「珍《めずら》しく下手じゃないか」  茶化すとホロは笑って、それからこちらを指差してきた。 「ぬしが今しがたまでやっておった仕事」 「仕事? これか?」 「んむ。その字を書く仕事。町で頼《たの》むと結構な金額になると言っておったな」  文字を読み書きできるのはそれだけで特殊《とくしゅ》な技術の一つに入る。  手紙の代筆はもちろん、正式な書類となればそれなりの金額にはなる。 「なんだ、なにか書いて欲しいものでもあるのか」 「ん? んむ……まあ、の」 「それくらいなら、文字通りお安い御用《ごよう》だが……他《ほか》にはいいのか。林檎とか、それこそ、桃のはちみつ漬けとか」  食い気より優先させるなんて珍《めずら》しい。  記録|云々《うんぬん》の話が出て、自分の故郷の話でも残したいと思ったのだろうか。 「それはそれで魅力《みりょく》的じゃが、食べ物は食べたら終わりじゃろう? ぬしは言っておったじゃないかや。文字は変化しないから長く残ると」  照れくさそうに言うので、やはりロレンスの予想通りかもしれない。  ロレンスはうなずき、こう言った。 「分厚い書物を書いてくれ、とか言われると困るけどな」 「いや、長さは大したことありんせん」  ホロはベッドから下りて、ひょいと机に腰掛《こしか》ける。  大して長くないというので、今すぐ書けということだろうか。 「で、なにを書けばいいんだ?」  ロレンスが尋《たず》ねると、ホロはすぐに答えず、少し視線を遠くした。  その文面を考えるように、一字一句を確かめるように。  よほど重要なことなのだ。  そのことにロレンスはようやく気がついて、ホロの言葉を待った。  小さな風のような音は、ホロが長い思考を思い切るように息を吸った音だった。 「文書名はこうじゃ。賢狼《けんろう》ホロの」  ロレンスは慌《あわ》てて羽根ペンを手に取り、使っていない羊皮紙を広げようとする。  それでもホロは言葉を止めることなく、こう言った。 「故郷に帰るまでの道案内|契約《けいやく》書」  ロレンスの手が止まり、先に目が、次いで首が回ってホロのほうを見た。 「人の記憶《きおく》は曖昧《あいまい》らしいからの。忘れられたら困りんす」  ホロの顔は真顔で、どちらかというとロレンスのことを責めるような顔だった。  ロレンスは言葉が出ない。  頭の中では、この村に来てからのホロの不機嫌《ふきげん》な様子が次々と映し出されては消えていく。  ホロは自分の出る幕がないせいで気兼《きが》ねしているから不機嫌だと言った。  しかし、それもまた方便だった。  本当のところはこれ。  ホロを故郷に連れていくという約束は口約束に過ぎない。  それなのに、ロレンスは無神経にも、人の記憶は曖昧だ、などと言ってせっせと村のために仕事をしていたのだ。 「い、いや……しかし」  ロレンスの口からようやく出てきたのはそんな言葉だ。  うまく言葉にならないが、ロレンスはホロとの旅をどんな商売の契約よりも優先して守っている自信があるし、それはホロもわかってくれているはずだと思っている。  だから、自分が確かに無神経だったとは思ったが、それでホロが怒《おこ》るのも少し納得《なっとく》がいかなかった。 「しかし?」  ホロは冷たい声で聞き返してくる。  理はホロにあるような気がしないでもない。  それに、確かに配慮《はいりょ》を欠いたのは自分のほうだ。  ロレンスが「いや」と答えて謝ろうとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「んふ。ま、わっちゃあぬしに何度も驚《おどろ》かされておるからの。それこそ、契約《けいやく》を忘れられぬくらいに」  ホロは突然《とつぜん》笑顔《えがお》になって、くつくつと笑いながらそう言った。 「ま、反省しておるようじゃから許してやろう」  言い返そうと思えば言い返せないこともないが、ホロだってそれは理解しているはずだ。  だから、ロレンスはホロが望むとおりに、こう言ってやった。 「……いや、悪かった」 「んむ」  ひくひくとホロの耳が満足げに動く。 「しかしじゃな」  と、ホロは再び表情を引き締《し》めてロレンスのことを見下ろしてくる。  次は一体なんだと身構えると、ホロは顔を近づけてきてこんなことを言った。 「契約書が必要ないとなると、わっちゃあ別のもので今回の報酬《ほうしゅう》を受け取れるということじゃな?」  ややのけぞりぎみに、ロレンスはうなずく。  それは当然のこと。  そう思っていたのだが、ホロの思惑《おもわく》に気がついて、思わず声を上げていた。 「いや、お前、それは——」 「わっちとぬしの、この旅の契約書を書く代金で買えるほどのものかや。んむう。わっちに食べきれるかわからんなあ」  にこにこと満面の笑みで、尻尾《しっぽ》は机の上の物を全部なぎ倒《たお》しかねないほどに揺《ゆ》れている。  どこにどんな罠《わな》を張って待ち構えているかわからない。  ロレンスは全《すべ》ての言質《げんち》を取られてしまっている。  反論する余地など、どこにもない。 「くふ。ぬしのその顔、さっきのクローリィとおんなじじゃ」  ホロにそう言われ、鼻先を突《つ》つかれる。  邪険《じゃけん》に払《はら》う気力すらない。  ホロは机から下りて、くるりと身を翻《ひるがえ》してから、椅子《いす》の背もたれ越《こ》しにロレンスに寄りかかってきた。 「では、ぬしも泣きじゃくるのかや?」  もう笑うしかない。  ロレンスは椅子から立ち上がりざま、口を開く。 「それもいいかもしれないな。幸い、受け止めてくれる相手はいる」  ホロがにっこりと笑う。  ロレンスは、覚悟《かくご》を決めてこう言った。 「だがまあ、お前の小さな胸では受け止めきれ——」  いい音がした。  ホロは手をぷらぷらさせてにこにこ顔。  ロレンスはホロが伸《の》ばしてくれた手を取って、よろめいた体を起こす。  ずっとホロは笑っている。  その笑顔《えがお》は明らかに偽物《にせもの》だが、ロレンスはそれを本物に変える魔法《まほう》を知っている。  ホロが笑顔のままなのは、それを唱えろという催促《さいそく》だ。  ロレンスに選択《せんたく》の余地はない。  ゆっくりと、その魔法を唱えた。 「これで、お前の笑顔はずっと忘れないだろうな」  ホロの尻尾《しっぽ》がふわりと膨《ふく》らみ、握《にぎ》る手に少しだけ力が込められる。  何百年といた村で、その名前だけを残して忘れ去られたホロ。  文字でも、その笑顔までは残せない。  外では宴《うたげ》の準備が進められている。  今夜の酒は格別に酔《よ》えそうだ。  こくりとうなずくホロの顔は、はにかむような笑顔だった。 [#地付き]終わり [#改ページ] [#改ページ]  寒さの厳しい季節であっても、時として春かと思うような日和《ひより》がある。  風はなく、じっとしていると日差しが熱いくらいに感じられる。  時は金なりという商人でも、こんな日だけは足を止め、あるいは荷馬車を道からそらし、羊や牛に食い荒《あ》らされていない草地を選んで寝《ね》転んでみたりする。  側《そば》に置くのは、わずかなぶどう酒とライ麦パン。  高い空を眺《なが》めながら、時折ぶどう酒で口を湿《しめ》らせ、ライ麦パンをひと口かじる。  ともすればパンを噛《か》むのすら面倒《めんどう》くさくなってしまい、だらしなくパンを咥《くわ》えたまま、うとうととしてしまう。  体に掛《か》けた毛布は日の光を一杯《いっぱい》に浴び、まるで暖炉《だんろ》の側で寝転んでいるかのように錯覚《さっかく》する。  耳に届くのは小鳥のさえずりと、太陽の光が降り注ぐ音だけ。  旅に暮らす者たちの特権の享受《きょうじゅ》。  魔《ま》が差すには、十分すぎる特権だった。  事の発端《ほったん》は、一枚の地図だった。  ようやく欠伸《あくび》が消えるという日も昇《のぼ》りきった午前中、荷馬車を駆《か》ってあちこち旅をする行商人のロレンスは、単調な道を行くのに飽《あ》きて、滅多《めった》に見ない地図を広げていた。  何年か前に、怪《あや》しげな財宝のありかを示した宝の地図と一緒《いっしよ》に二束三文《にそくさんもん》で買い取ったものだ。  財宝の地図のほうは内容と共に今にも砕《くだ》け散りそうな質の悪い紙であったものの、もう一方の地図は羊皮紙で作られた丈夫《じょうぶ》なもので、きちんと実用に堪《た》えるものだった。  その地図を手に取り、視線を束に向ける。  ロレンスたちが進んでいる道は、長いこと森と平行して続いていた。  その森は、すぐ側《そば》を通る道がほとんど草の生えない荒野《こうや》と呼んで差し支えのないものであるにもかかわらず、一年中木々の生《お》い茂《しげ》る黒々とした森だった。  ただ、鬱蒼《うっそう》としたその森も、その昔に近隣《きんりん》に新しい町を作る際に大量の樹木を伐採《ばっさい》され、面積が半分になってしまったと聞いていた。  ロレンスが手にしている地図にも、大昔の森の大きさが一緒《いっしょ》に描《か》かれていて、過去、いかにこの地域においてこの森が偉大《いだい》だったかが示されていた。 「どうしたのかや?」  と、ロレンスが荷馬車の御者《ぎょしゃ》台の上であれこれ視線を巡《めぐ》らせていると、荷台の上でごろごろしていた旅の連れ、ホロがそれに気がついたらしい。  振《ふ》り向くと、ともすれば修道女にも見えるような格好のホロが、荷物の上に寄りかかったまま、横着に頭をさかさまにしてこちらを向いていた。 「伐採場があるんだよ」 「伐採場?」 「昔のだけどな。森の木を切って材木を調達する場所だ」  しかし、ロレンスの興味の矛先《ほこさき》はもちろんそんな森の過去の偉大さではない。  視線を森へと続く道に向け、その先にあるらしい草原を思ってのことだった。 「ほう……それが、この道の先に?」  ロレンスは、視線を手元の地図に戻《もど》して、ホロに説明する。 「森を挟《はさ》んでこっち側《がわ》は町と村々をつなぐ交易路でな、羊や牛が大量に通過するせいで丸裸《まるはだか》のごらんの有様《ありさま》だ。が、森を挟んだ向こう側には肥沃《ひよく》な草原が広がっているらしい」 「肥沃な草原?」  ホロは体を起こすこともせず、声だけを向けてきた。 「この時期でも、青々とした草がなだらかな斜面《しゃめん》に沿って生い茂っているそうだ」  ホロはしばし返事をしなかった。  ロレンスが少し気になって振り向くと、不機嫌《ふきげん》そうな目を向けられた。 「わっちゃあ羊ではありんせん。草が生えておっても嬉《うれ》しくともなんともないんじゃがな」  つまらなさそうな声。  きっと、たまたま荷馬車の側を通りがかった者であれば、この言葉の意味はよくわからなかったことだろう。  ただ、それは別に変な言い回しだったりするわけではない。  ホロの頭の上にはおよそ人のものとは思えない立派な狼《オオカミ》の耳が鎮座《ちんざ》し、その腰《こし》からはふさふさの毛並みの尻尾《しっぽ》が生えている。  見た目は齢《よわい》十余といった少女のものでありながら、その真の姿は人を軽く丸飲みにできる巨大《きょだい》な狼だった。  ホロの言葉に首を捻《ひね》った者でも、その真の姿を見れば言葉の意味は十分に納得《なっとく》できたに違《ちが》いない。 「それは失礼。だが、草を食《は》むためだけに使うのはもったいないな」 「ふむ?」 「この陽気だ。斜面《しゃめん》に沿って日の光が一杯《いっぱい》に降り注ぐ草原は、ちょっと魅力《みりょく》的じゃなかろうか?」  その瞬間《しゅんかん》、ホロの目があらぬ方向を見て、直後に尻尾が手の中でうねうねと動き出した。想像力豊かなホロのこと、その草原の使い方を実に的確に理解したことだろう。  だから、次にホロが口を開いた時、出てきたのは一足《いっそく》飛《と》びの質問|事項《じこう》だった。 「じゃが、ぬしは旅を急ぐのでは?」  森を抜《ぬ》けて日の光が降り注ぐ草原でごろりと昼寝《ひるね》、というのは、時は金なりの商人にとっては首に縄《なわ》を巻《ま》くような行為《こうい》に等しいだろう。  ただ、旅の遅《おく》れを一応|気遣《きづか》ってそう聞いてくるホロの目は、歴代の皇帝《こうてい》を骨抜きにしてきた絶世の美女たちですら裸足《はだし》で逃《に》げ出しかねない媚《こ》びたものだった。  これくらいされれば逆にいっそすがすがしい。  それに、尻尾はそれこそ口ほどにものを言っている。  ロレンスとしては、これくらい喜んでくれるのなら多少旅が遅れたところで構わない。  むしろ、のんびり日向《ひなた》ぼっこするだけでホロが喜んでくれるのならお釣《つ》りがくるくらいだ。  ただでさえ娯楽《ごらく》の少ない無味な旅路だから、ちょっとした気晴らしは必要だった。 「効率良く進むためには休養も必要だからな。ただ、期待させてなんなんだが……」 「なんなんだが?」  ロレンスは、地図をひらひらとさせてあとを続けた。 「いかんせん地図が当てになるかどうかわからない。森を抜けるのが困難そうだったら、諦《あきら》めよう」  これが子供相手ならば言いにくい言葉だが、幸いなことに相手は賢狼《けんろう》と呼ばれるホロ。  ロレンスがどんなことを考えてこんな提案をしているのかきちんと理解してくれている。  仰向《あおむ》けに尻尾の毛づくろいをしていたホロは、寝返りを打つとうつぶせになって、上目《うわめ》遣《づか》いにこちらを向いた。 「なに、それなら木漏《こも》れ日《び》の下でごろ寝をすればよい」  ロレンスが草原の話をしてホロがその様子を想像したように、今度はロレンスがホロの話した様子を想像する。  一年中葉の落ちない森の中、時折ちょつとした風が木々をざわめかせる音を聞きながら、木漏《こも》れ日《び》の下で二人、優雅《ゆうが》に昼寝《ひるね》をするのも確かに悪くない気がする。  ロレンスがそんな想像から立ち返ってホロに視線を戻《もど》すと、「どうじゃ?」という無言の問いかけを向けられた。 「悪くない」 「決まりじゃな」  ロレンスは地図を置いて手綱《たづな》を、ホロは再び寝返りを打って仰向《あおむ》けに。  そして、荷馬車は森の中へと続く道を進んでいった。  それはうららかな日和《ひより》の、欠伸《あくび》も消えた午前中のことだった。  森の中に続く道は、今も誰《だれ》かしらが使っているらしい。  狩人《かりうど》か、木の実を採取する者か、あるいは野蜜《のみつ》や薪《まき》を取りに来る者かもしれない。なんにせよ道はそれなりに整備されていて、荷馬車でも楽に入っていくことができた。  森の中は適度に静かで、適度に騒《さわ》がしく、気楽な寄り道にはうってつけだった。  森に入るまでは一応ロレンスを気遣《きづか》って酒に手を出していなかったホロも、鳥のさえずりを肴《さかな》にぶどう酒をなめていた。  もちろん、とっくに寄り道気分のロレンスも怒《おこ》りはしない。  ただ、時折荷台を振《ふ》り向いては「全部飲むなよ」と釘《くぎ》を刺《さ》しつつ、賄賂《わいろ》とばかりに皮袋《かわぶくろ》を差し出してくるホロの手から酒を受け取っていた。  手元の地図によると、ロレンスたちが進んでいる道は縦に細長い森を横に突《つ》っ切るように伸《の》びていた。また、そこは細長い森のくびれた部分にもなっていて、要するに森を迂回《うかい》せずに越《こ》える際にもっとも通りやすい道、ということになる。  しかし、地図通りに道が伸びていないなどといったことはままあることで、しばらく順調に進んでいたところで道が大きく右に曲がっていた。  その道は地図にはなく、倒木《とうぼく》などで古い道がふさがれたせいで新しく作られた道、というわけでもなく、元々そちらに伸びているように見えた。  地図にはない道であったが、分かれ道でもなかったので迷うこともないだろう。  ロレンスはそう判断して、道なりに馬を進めていった。 「冬の森はの」  と、ふとホロが荷台で口を開いた。 「昼間ではなく、早朝に来るのがよい」  見晴らしのいい道ではなく、沢《さわ》や木の根っこにいつ何時《なんどき》車輪をとられるかわからない道なので後ろは振《ふ》り向けなかったが、口調からしてだいぶ酒が回っていることが窺《うかが》えた。 「どうしてだ?」 「ふむ。この森でも、それなりに落ち葉が積もっておるじゃろ? 夜の寒さに負けてぐっしょりと濡《ぬ》れた落ち葉がな、朝の光を受けて白い湯気を立ち上らせるんじゃ。そこで深呼吸をしてみれば……」 「冬の乾《かわ》いた空気に慣れた肺には、その湿《しめ》った空気がたまらなくうまい」  ロレンスがあとを続けると、ホロは「ふむ」と満足げにうなずいた。 「昼間に来るならば夏の森じゃな。強い日差しの木漏《こも》れ日《び》が頬《ほお》に注ぐと、鳥の羽でくすぐられておるみたいじゃからな」 「だが、夏の森は虫が多すぎる」  ロレンスだって旅に暮らす人間だから、四季の森の良し悪しくらいわかっている。  予想通り、ホロのくすぐったそうな笑い声が聞こえてきた。  夏の木漏れ日の下で、うるさそうに尻尾《しっぽ》を振って虫を追い払《はら》うホロの姿がまざまざと目に浮かぶ。 「ま、森はよいところでありんす。ここのところ平野ばか……い……あふ……じゃったからな……」  そろそろ昼寝《ひるね》の頃合《ころあい》だろうか。  ホロは欠伸《あくび》まじりにそう言って、ごそごそと毛布かなにかをいじくっている。  まだ草原までは遠そうだったので、いそいそと寝に入ろうとしている旅の相方《あいかた》に、ロレンスはこう言って抗議《こうぎ》した。 「森に限らず、平野でもどこでも常にそれなりに楽しい場合がある」 「……ふむ?」 「旅の連れと、とめどもない会話をしている場合だ」  天気のよい日の平野での単調な行程は、ある種の我慢《がまん》強さへの試練に似ているところがある。  それでなくたって、後ろの荷台でのんびり昼寝をされたら一人|手綱《たづな》を握《にぎ》らなければならないロレンスには面白《おもしろ》くない。  だから敢《あ》えてそう言うと、頭の良いホロはロレンスの言いたいことに気がついたらしい。  ひょいと御者《ぎょしゃ》台の背もたれに顎《あご》を乗せ、いたずらっぽくロレンスのことを見上げてきた。 「わっちゃあ狼《オオカミ》じゃからな。生憎《あいにく》と歯ごたえのない会話は好きではありんせん」  軽い攻撃《こうげき》。  ロレンスは、やんわりと受け流す。 「ならば。晩飯をなににするかという白熱《はくねつ》の議論でもいい」  ホロが少し唇《くちびる》を尖《とが》らせる。 「白熱《はくねつ》よりも、ぬしが赤熱《せきねつ》するような会話をしてくりゃれ?」  ホロは半眼になって、耳の付け根をロレンスの腕《うで》に軽くこすりつけてくる。  酔《よ》っているのか、と思って油断すると手ぐすねをひいて待っているのがホロの流儀《りゅうぎ》。  単純に耳の付け根がかゆかったのだろうと思っておく。 「赤熱? それはあれか。思わず顔が赤くなるような、か?」 「くふ。うん」  ホロが犬か猫《ネコ》であれば手荒《てあら》く撫《な》でまわして干し肉の一つでもくれてやるのだが、生憎《あいにく》と隙《すき》を見せればこちらが食われる狼《オオカミ》だ。  ロレンスは腕を上げ、ゆっくりとホロの頭の上に肘《ひじ》を置く。すぐに「む」とホロが喉《のど》の奥で不満げにうめいて、きつい視線を向けてきた。 「お前がどれだけ酒を飲んだのかと考えるだけで、顔が真っ赤になりそうだ」 「……そんなに飲んではおらぬ」  ホロは酒を飲んでもしばらくはまったくといっていいほど顔に出ないので、見た目はほとんど変わっていない。  しかし、遠まわしに嫌味《いやみ》を言われたホロはちょっと気になったらしく、ロレンスの肘の下から抜《ぬ》け出るとごしごしと顔を拭《ぬぐ》っていた。 「日の当たる草原でのんびり一杯《いっぱい》、というのを楽しみにしておくんだな」 「そんなに飲んではおらぬというのに」  不満げにホロは言い、荷台に引っ込んで荒《あらあら》々しく横になった。  その様子がちょっとばかり本気で怒《おこ》っているようにも感じられたので、もしかしたらホロはロレンスの分をきちんと量って飲んでいたのかもしれない。  そこのところを信用していないわけではないが、やはり疑われたらホロとしては面白《おもしろ》くないのだろう。  ロレンスはそう思い、少し謝っておくかと後ろを振《ふ》り向くと、ちょうどホロと目が合った。  その時のにやりという笑《え》みは、十分ロレンスのため息に見合うもの。  心配になって振り向かせるまでが、ホロの描《か》いた絵図だったのだ。 「ま、実を言うと他愛《たわい》ない会話はわっちも好きじゃ。その中でも一番好きなのはな」 「哀《あわ》れな行商人をからかう類《たぐい》のものか?」 「む? うむ、それはそれでよいな」  なかなか道は森の外に出ず、草原はまだかと目を凝《こ》らしてみると、いつの間にかもう一本の道が平行に通っていて、少し先に行ったところで交差しているようだった。  ホロの言葉に肩《かた》をすくめつつ、ロレンスは地図を取り出して目を落とした。 「なら、どんな種類の会話が好きなんだ?」  地図と道とを交互《こうご》に見ながら、時折木々の向こう側《がわ》を見通すように目を凝らす。  どうやら今ロレンスたちが通っている道以外にも、複数の道が森の中には存在するらしい。  しかも、それらは複雑に交差している感じがする。  だとしたら迷う前に引き返したほうがいいかもしれない。  ロレンスがそんなことをぽつりぽつりと思っていると、突然《とつぜん》首筋に刺《さ》すような視線を感じて振り向いた。 「……こういう会話は、少なくとも好きではありんせん」  不機嫌《ふきげん》そうに、ホロの尻尾《しっぽ》がゆらゆらと揺《ゆ》れている。  頭が空白になったのも一瞬《いっしゅん》のこと。  他愛のない会話と、おざなりに相手をされる会話は似て非なるものだ。  一人旅では気にしたこともなかったので、迂闇《うかつ》だった。  ロレンスは、素直《すなお》に謝った。 「悪かったよ。それで、どんな会話が好きなんだ?」  そして、ロレンスが改めてそう聞きなおすと、ホロの顔が一瞬で呆《あき》れ顔《がお》になった。 「わっちゃあ子供かや」 「え?」 「会話には流れというものがあるじゃろうが。これで、はいそうでありんすね、とわっちがすんなり話せるとでも思っておるのかや」  ホロの言葉の直後、車輪が木の根っこを踏《ふ》んでがたんと揺《ゆ》れた。  ロレンスは慌《あわ》てて前に向きなおり、それから、またすぐに後ろを振《ふ》り向いた。  ホロは荷物の上にうつぶせになって、眠《ねむ》る体勢だ。  顔は、ロレンスに向けられていない。 「……」  ロレンスは気まずく前に向きなおり、額に手をやった。  馬を相手に独《ひと》り言《ごと》を言っていた生活では、経験したことのない事態だ。  どうやって謝るべきか、とあれこれ考えたが、きっと取り繕《つくろ》おうとすれば泥沼《どろぬま》に違《ちが》いない。  ロレンスは、覚悟《かくご》を決めてこう言った。 「悪かったよ」  さっきと同じ言葉。  ただ、会話には流れというものがある。 「ふん」  不機嫌《ふきげん》そうに鼻を鳴らしたホロのそれは、ロレンスを許してくれるものだった。 「それで……いつになったら森を抜《ぬ》けられるのかや」  言葉に間があったのは、皮袋《かわぶくろ》に口をつけていたからだろう。  結局、ホロが好きな他愛《たわい》のない会話とやらがなんなのかは教えてくれなかった。 「森の精霊《せいれい》は森の中に道を作れるというが、賢狼《けんろう》ホロにはそんな便利な力はないのか」 「麦畑でなら、それもできぬことはない」 「へえ、本当か? ちょっと見てみたいな」 「機会があれば、の」  ホロのそっけない口調は、それに文句をつければ見返りを要求するための餌《えさ》だろう。  ロレンスは危《あや》ういところで、言葉を飲んだ。 「しかし、なんだか妙《みょう》な森だな」  荷馬車が一度揺れたのは、交差した細い道を越《こ》えたせいだ。 「妙とは?」 「ずいぶんたくさん道がある。伐採《ばっさい》した木を運ぶにしても、妙な感じがするな」  やはり道に迷う前に引き返すべきだろうか、と思う。  そろそろ正午を過ぎる。  日が頭上を越えると、影《かげ》の向きが変わる。  道は一応覚えているが、影の向きが変わると道の印象も変わり、その分迷いやすくなる。 「……」 「どうしたかや」  ロレンスが思案していると、ホロが声をかけてきた。 「迷う寸前かや?」  ホロの意地悪な笑《え》み。  旅に生きてきた行商人として、それが冗談《じょうだん》めかした親切からの忠告だとしても、ちょっとむっとした。 「せっかくここまで来たんだし、一応道順は覚えてるから問題ない」  自分が意地を張っている、ということには気がついた。  ホロはそれに気がついているのかどうか、しばらく黙《だま》って尻尾《しっぽ》をゆらゆらとさせたあと、起こしかけていた体を荷物の上に投げ出した。 「ま、ぬしは旅に生きる者じゃからな」  余計な口を挟《はさ》んで悪かった、とばかりにホロは意見を引っ込めた。  ごとごとと荷馬車は進む。  相変わらず道は複雑に交叉《こうさ》し、うねり、辺りは一向に開けない。  時間は刻一刻と流れ、挙句《あげく》の果てに五叉路《ごさろ》に行き当たった。  普通《ふつう》の旅路では神のお慈悲《じひ》を乞《こ》う場面だ。  ロレンスは馬を止め、天を仰《あお》ぐ。時刻は昼を過ぎ、草の上に寝《ね》転ぶには最適の時間といえる。  言うなれば、もうこれを過ぎれば最適な時間ではないということだ。  帰りの時間のことを考えれば、もう今この瞬間《しゅんかん》に草原に着いていなければならないくらいだろう。  しかし、せっかく寄り道をしてここまで来たのだから、一度も草原の姿を拝まずに引き返すというのはあまりにも間抜《まぬ》けだ。  なにより、ホロの忠告を無視しているので格好がつかなかった。 「……」  ロレンスは御者《ぎょしゃ》台の上で黙考《もっこう》し、馬を止めたまま歩かせることも忘れていた。  合理的な判断としては、このまま先に進むよりかは、引き返したほうがよいのは明白だ。  それでも、ここでやっぱり戻《もど》ろうと言えば、ホロになんと言われるかわからない。  それが見栄《みえ》からくるものだとはわかっていても、潔《いさぎよ》く飲み込むことにどうしても抵抗《ていこう》がある。  ロレンスの葛藤《かっとう》を知ってか知らずか、ホロが尻尾をぱったぱったと振《ふ》っている。  明らかな挑発《ちょうはつ》。  ロレンスはやはり前に進もう、と手綱《たづな》を握《にぎ》りかけて、はたと気がついた。  もしもこのまま無理に進んで、道に迷ったとしたら? 「……」  そして。  やっぱり引き返そう。  ロレンスが胸中で結論を出した直後だった。 「んふ。まったく、ぬしは可愛《かわい》いのお」  突然《とつぜん》、御者《ぎょしゃ》台の背もたれに顔を乗せたホロがそんなことを言ってきた。 「ぬしもわっちのような耳と尻尾《しっぽ》をつけたらどうじゃ?」 「ど、どういう意味だ」  口調が硬《かた》くなってしまったがホロは一向に気にしない。 「ぬしほどなにを考えておるかがわかりやすい雄《おす》もおらぬということじゃ」 「なに?」  若干《じゃっかん》の苛立《いらだ》ちを交えてロレンスが聞き返すと、ホロが体を起こして顔を近づげてくる。  思わずロレンスがのけぞったのは、ホロの笑《え》みの質が変わったからだ。 「わっちの忠告を蹴《け》った手前、引き返そうと言い出すのは癪《しゃく》じゃが、かといって進むには危険が大きい。さて、どうするか」  図星。  ロレンスが思わず顔を背《そむ》けると、ホロは笑顔のまま、さらにずいと顔を近づけてきた。 「ぬしがつまらぬ意地を張っておることくらいすぐにわかりんす」  何百年と生き、賢狼《けんろう》を自称《じしょう》するホロ。  ホロの顔が、頬《ほお》に息のかかる距離《きょり》にまで近づいて、ロレンスはさらに逃《に》げようとする。  しかし狭《せま》い御者台の上。  向かい合ったホロの琥珀《こはく》色の目は、全《すべ》てを見通す占《うらな》い師《し》のようだった。 「じゃがな」  と、そのあとに続いたホロの口調は、拍子《ひょうし》抜《ぬ》けするほど柔《やわ》らかかった。  しかも、もはやあとは口を開いてガブリと頭から食べるだけ、という距離にまで近づけていた顔もあっさりと引いた。  ホロの態度の変化についていけず、ロレンスはホロが御者台の背もたれに腰掛《こしか》けるのをぼんやりと見つめていた。 「よっと。じゃがな、ではなぜぬしがそんな意地を張るかと考えればな、わっちにゃあ怒《おこ》ることなどできんせん」  背もたれに座っているので、ホロのほうがロレンスを見下ろす形になっている。  いつもとは逆の構図だが、こちらを見下ろしてくるホロの様子は、腹立たしいほど様になっていた。 「ぬしは、背伸《せの》びしてでもわっちの優位に立っていたいんじゃろう? そんな仔《こ》のようなことを考えておるんじゃ。わっちにはどうしたって、怒ることなどできんせん」  嘲《あざけ》るような笑顔、だったらまだどうにかなったような気がする。  ロレンスがホロに反論しようとして、少年のように失敗してしまったのには訳がある。  気負いも衒《てら》いもなく、年上の姉のように微笑《ほほえ》まれていたのだ。  そんなことされたら、手も足も出ない。  それに、図星なところが救いようがなかった。 「ぬしのよくないところはな」  ホロは喋《しゃべ》りながら身軽に御者《ぎょしゃ》台へと下りる。  隣《となり》に座ると、身長差から、ホロのほうが見上げる形になった。 「なにもかもを天秤《てんびん》で判断しがちなところじゃな」 「……天秤?」 「うむ。右が重いか左が重いか、あるいはどちらが上か下か。そんなことばかり気にしておるから、駄目《だめ》なんじゃ。商人としては正しいことなのかもしれぬがな」  ごそごそとしているのは、荷台のほうに手を伸《の》ばして毛布を引っ張り上げたから。  そして、毛布を引き寄せ終わると、突然《とつぜん》手綱《たづな》を握《にぎ》るロレンスの手を軽く叩《たた》いてきた。 「で、いつまで手綱を握っておるんじゃ?」 「……え? いつまでって、これから、戻《もど》るんだろうが」  ホロの言葉の意味がわからず、ロレンスが思わず怪訝《けげん》そうにそう言い返すと、たちまちホロの顔は呆《あき》れ顔《がお》になった。 「まったく……わっちゃあぬしに言ったじゃろう? ぬしに必要なのはな、流れを見|極《きわ》めることじゃ、と」  確かに、話の最中にそんなことを言われたような気もする。  だが、それと、手綱を放すこととのつながりがわからない。  またなにか複雑な罠《わな》の中に放《ほう》り込まれているのか、と訝《いぶか》しんだのもつかの間、すぐに自分の思い違《ちが》いに気がついた。 「あ!」 「まったく。ようやく気がついたのかや」  返す言葉もない。  ついさっきまでの流れを追えば単純なこと。  この森に入る前に、ホロとどんなやり取りをしたのかと考えれば当たり前のことだ。  森を抜《ぬ》けるのが困難であれば、どうするのがいい、と言った? 「初めからそうすればよかったのに、勝手に沼の中へと歩いていこうとしておるのじゃからな。わっちが労せずぬしの足元をすくえるのはな、わっちが聡《さと》いからではなく、ぬしがたわけなだけじゃ」  ホロに引っ張られて手綱を放し、ロレンスは手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》になった両手を閉じたり開いたりしてしまう。  言われれば当たり前のことなのに、まったく気がつけなかった。 「それにな、わっちのご機嫌《きげん》取りなら、草原にこだわる必要はまったくなかったとわかるかや」  毛布をばさりと広げ、器用にロレンスもまとめてその内|側《がわ》に包《くる》んでしまう。  これもまた流れを見誤っていた。  ホロは旅路の中でなにが好きだと言った? 「他愛《たわい》のない会話の中で、なにが一番好きなのか」 「うむ。それを確認《かくにん》しておれば、もしかしたら、無理に草原に行く必要などまったくなく、なおかつわっちのご機嫌を最大限によくできたかもしれぬのに」  ホロの口調はとても楽しそうだ。  実際に楽しいのだろう。  ロレンスが、こんなにも滅多《めった》打《う》ちなのだから。 「で、なにが一番好きだったんだ?」  こう尋《たず》ねた直後、ロレンスは驚《おどろ》いてちょっと目を見開いてしまった。  それは、ホロが怒《おこ》っていたからでも、呆《あき》れていたからでもない。  ましてや軽蔑《けいべつ》しているとか、嘲笑《ちょうしょう》しているとかいうわけでもない。  ロレンスが尋ねると、ホロは恥《は》ずかしげにはにかんだのだ。 「くっくっ……実を言うとな、こんな流れでしか言えぬことなんじゃ」  ホロは自分の言葉がくすぐったくてたまらない、といったふうに首をすくめ、一人でくつくつと笑っていた。  よっぽど恥ずかしいことなのかもしれないが、だとすれば、それを口に出すのはなるほど最高の頃合《ころあい》だった。  今、ホロは圧倒《あっとう》的優位にいる。  なにを言ったって、許される。 「わっちが好きなのはな、こんなふうに喋《しゃべ》りながら、そのまま眠《ねむ》りに落ちること。他愛もない、耳にくすぐったいだけの言葉を聞きながら、の……」  最後は恥ずかしさのせいか、顔を背《そむ》けてしまった。  確かに、喋りながら眠りに落ちるのが好きだなど、子守唄《こもりうた》を聞きながら寝《ね》るのが好きだと言っているのと変わらない。  ただ、そう言われると、思い当たる節がある。  話している最中にホロが眠りに落ちてしまうことはたびたびあった。  ロレンスはそれをホロのわがままさの表れだと思っていたのだが、よもや真相がこんなことだったとは。  背けているホロの顔を覗《のぞ》き込んだら、もしかしたら冗談《じょうだん》ではなく赤くなっているかもしれない。 「どうじゃ、たわけじゃろう?」 「……残念ながら、その通りだ」  ホロはこちらに向き直り、恨めしそうな顔をして肩《かた》に頭突《ずつ》きをしてきた。 「じゃが、今、優位に立っておるのは誰《だれ》じゃろうな?」  一番のたわけは、もちろんのこと確かめるまでもない。  このことを聞き出していれば、ホロの優位に立てたのは間違《まちが》いなくロレンスだ。  草原に行くことにこだわる必要もなかったし、無駄《むだ》な意地を張る必要もなかった。  むしろホロのほうが変に意地を張っていたかもしれない。  流れを慎重《しんちょう》に見|極《きわ》めていた、ホロの勝利だ。 「お前には敵《かな》わない」 「当然じゃな」  もそり、と身じろぎして、直後にホロの狼《オオカミ》の耳が小刻みに震《ふる》えて、欠伸《あくび》が聞こえてきた。 「ほれ……わっちが一番好むことを言ったんじゃ。なにか、話してくりゃれ?」  こんな子供っぽいことをねだられているのに、手綱《たづな》を握《にぎ》っているのはホロなのだ。  ロレンスは悔《くや》しくてたまらないが、嫌《いや》な気がしない理由はもちろんよくわかっている。仕方ないので晩飯の候補の話をしてやった。  いつもと同じ、味気ないパンと干し肉と、干した木の実の食事。森の中を走ればもしかしたら鶉《ウズラ》や兎《ウサギ》が獲《と》れるかもしれない、と話した時のホロの耳の立ち方には笑ってしまった。  そんなことを取りとめもなく話してやっていたら、やがてホロは寝息《ねいき》を立てていた。  ついさっきまではロレンスのことを手玉に取り放題だった狼《オオカミ》は、遊び疲《つか》れたといった風情《ふぜい》だ。  そんなホロを見ながら、いつか自分も流れを上手に掴《つか》んでホロの優位に立つことができるのだろうか、とロレンスは思う。  草原の上ほど暖かくはないが、二人で一つの毛布の下にいれば勝《まさ》るとも劣《おと》らない。  子供のように、少しだけ体温の高いホロと一緒《いっしょ》にいるとなおさらだ。  しかし、寝ている時はこんなにも無防備なのに、と思わなくもない。  鼻をつまんだって起きないだろうし、産毛《うぶげ》に覆《おお》われた耳の中に指を突《つ》っ込んだって平気かもしれない。  散々|滅多《めった》打《う》ちにされたロレンスは、あんまりにも無垢《むく》な寝顔を見てそんな復讐心《ふくしゅうしん》を心の内で弄《もてあそ》んでいた。  すると、神の思《おぼ》し召《め》しかもしれない。  ふと少しホロの体勢が崩《くず》れそうだったので、ロレンスはそれを支《ささ》えがてら、ささやかな反撃《はんげき》に出た。  こっちがお前の保護者なんだぞ、と示すように、ホロの細い肩《かた》に腕《うで》を回して。  そして、自らも目を閉じようとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「合格」  ホロの小さい声が聞こえて、体が凍《こお》りついた。  ここが、一連の流れの行きつくところだったのだ。  少しだけ顔を上げたホロは意地悪そうに笑い、その唇《くちびる》の下では牙《きば》が光っていた。 「罠《わな》は、滝《たき》つぼに置いておけばよい」  ロレンスは、流れとしてこう続けざるを得ない。 「勝手に……馬鹿《ばか》な魚が嵌《は》まってくれるから?」  ホロはうなずき、くつくつと笑う。  ロレンスは天を仰《あお》ぎ、悔《くや》しさの余り、ホロの肩に回していた腕《うで》でその首を軽く絞《し》め上げた。  途端《とたん》に嬉《うれ》しそうに暴れるホロの尻尾《しっぽ》。  まったく、馬鹿なこと。  本当に、馬鹿なこと。  寄り道をして時間を浪費《ろうひ》するなど商人にとっては首に縄《なわ》を巻くような行為《こうい》だ。  もう、その時点で勝負はついていた。  商人がいそいそと自分の首に巻いた縄の、その先端《せんたん》は誰《だれ》が持つ?  他《ほか》に誰がいるわけでもない。  ロレンスは、がっくりとうなだれて、ホロの頭の上に、自分の顔を重ねた。  この流れでいえば、納まるべきはそこである、と言わんばかりに。 [#地付き]終わり [#改ページ]  干草《ほしくさ》の束を下ろし終え、ようやく一息ついた。  まだ場所によってはうっすらと雪が残っているというのに、春の日差しと未《いま》だに慣れない力仕事のせいで汗《あせ》すらかいていた。 「いい草ですね。今年は家畜《かちく》がよく育つでしょう」  干草の束を数えていたジョンズ商会の男が、なんの気なしにそう言った。  服についた干草を手で払《はら》っていたフルールは、ちょうど父親くらいの年齢《ねんれい》のその男に、精一杯《せいいっぱい》に努力してぎこちなく愛想を見せる。 「実際に育ちすぎて、冬の間は肉ばかりだったと」 「そうですか。ならば、いつもよりも多めに買い付けるべきか……はてさて」 「それで、いくらで?」  羽根ペンで自分の顎《あご》を撫《な》でていた商会の男は、その言葉でようやく代金のことを思い出したらしい。散々数えた干草の束をもう一度数えなおして、たっぷり間をあけてから返事をする。 「十七リゴット」 「約束では、最低で二十だったはず」  即座《そくざ》に言い返しても、相手は羽根ペンをくるくると回すだけ。  商人たちの、この人を馬鹿《ばか》にしたような独特の間。  フルールがわずかに顔に残していた愛想を消しかけると、後ろから別の声が聞こえてきた。 「そういう時は、二十五だったはず、と言うべきです」 「オーラー」  フルールが振《ふ》り向けば、そこには年老いた一人の商人がいた。  羽根ペンを弄《もてあそ》んでいた男は、自分のこめかみをかりかりと掻《か》いてから、軽く鼻で笑って首をかしげた。 「では、その図《ずうずう》々しさに免《めん》じて二十リゴットで」 「当然、借りた荷馬車の借り賃は込みでしょうな?」  綺麗《きれい》な銀色の髪《かみ》の毛《け》を、だいぶ少なくなった今でも毎朝卵の白身で撫《な》でつけるオーラー。  相手も若くない商人だが、子供にすら見える。 「結構。情報料も込みで」 「神に感謝する」  自分の頭|越《ご》しに交《か》わされる商談に、フルールは一言も口を挟《はさ》めない。  オーラーが荷馬車の荷台から荷物を下ろす段になってようやく、自分にもできることを見つけられたくらいだ。 「帰りますよ」  そして、荷馬車を返し、商会の男が帳簿《ちょうぼ》に書き込んだ数字を確認《かくにん》すると、オーラーはそんな言葉だけを向けて、歩き出した。  見かけの割に頑丈《がんじょう》なオーラーは、荷物を背負ったままでもひょいひょいと軽快に歩く。  港の荷揚《にあ》げ場は、あちらから人、こちらから馬、そちらからは荷車がやってくる有様《ありさま》だというのに、オーラーは誰《だれ》ともぶつからずに魔法《まほう》のように歩くことができる。  自分が若い女であることを隠《かく》すために、顔に巻いている頭巾《ずきん》にも慣れていないフルールは、まっすぐに進むことすら困難だ。ようやくフルールがオーラーの隣《となり》に立てたのは、二人が並んで歩けばそれだけでふさがってしまうような路地に入ってから。  上からは子供の泣き声が、下からは鼠《ネズミ》の鳴き声が、顔の高さの窓|枠《わく》からは猫《ネコ》の鳴き声が聞こえてくるような場所。少し前までならば、おおよそ死ぬまでに足を踏《ふ》み入れるとは想像すらしていなかったような場所だ。  それでも、人間何事にも慣れるものなのだとフルールは思う。  窓枠に置かれた鉢植《はちう》えの側《そば》で眠《ねむ》る猫の喉《のど》を、通り過ぎ際《ぎわ》につい軽く撫でてしまう。  庶民《しょみん》の生活も、それほど悪いわけではない。 「お嬢様《じょうさま》」  オーラーの険しい声がとどろいたせいで、猫はひょいと家の中に入ってしまった。  そんな声を出した無粋者《ぶすいもの》に批難の目を向けると、相手はそれ以上に批難を目に込めていた。 「反省していらっしゃらないのですか?」  年齢《ねんれい》も経験も圧倒《あっとう》的に上の人物から批難されて、なお笑ってしまったのはフルールが豪胆《ごうたん》だからというわけではない。  単純に、幼い頃《ころ》家庭教師に散々|怒《おこ》られたことを思い出したからだ。 「ああ、悪い。いや、反省はしているよ」  実際に、交渉《こうしょう》の場では自分は完全に役立たずだった。 「それに、約束を反故《ほご》にしようとした相手を前に、怒り出さなかったことを褒《ほ》めてもらいたい、と思う段階は越《こ》えたらしい」 「お嬢様《じょうさま》っ」  ちょっとした冗談《じょうだん》に、オーラーは禿《は》げ上がった頭頂部にまで皺《しわ》を寄せて渋面《じゅうめん》を作る。  交渉の場では石像かと思うくらいにぴくりともしないくせに、それ以外の場所では実に豊かな表情だといつも感心する。 「怒るな。それに、お嬢様と言うのはやめろ、と言ったはずだ」 「それでは、もう少し商人としての自覚を持っていただきたい」  オーラーのまっすぐな視線を前に、フルールはつと目をそらしてしまう。  商人としての自覚を持てという言葉は、常に念頭に置いてある。  なぜなら、もはや自分は貴族ではないのだから。  第十一代ボラン家当主、フルール・フォン・イーターゼンテル・マリエル・ボラン。  そんな長い名前に、今は懐《なつ》かしさすら覚える。 「もちろん、自覚しているよ。手をこんなに魚|臭《くさ》くして鰊《ニシン》を運び、帰り荷に見事な干草《ほしくさ》を積んできたのだからね」 「それはお見事でございました。ついこの間まで馬に乗るのもおっかなびっくりだったとは誰《だれ》も信じないでしょう」  褒《ほ》められているように聞こえないのは、オーラーが依然《いぜん》として怒っているからだ。  その理由がわからないはずはない。  しかし、厳しいオーラーは、はっきりと口にしないと気がすまなかったらしい。 「鰊の仕入れ値が十ニリゴット。関税が四リゴット。糧食《りょうしょく》の小麦パン、羊の干し肉、豚《ブタ》の塩《しお》漬《づ》け肉。チーズに酢《す》漬けにぶどう酒もつけて半リゴット。馬の餌《えさ》代と荷馬車の借り賃にニリゴット。全《すべ》て合わせると?」  オーラーの質問に、フルールは頭巾《ずきん》の奥でため息をつく。  鰊の仕入れ値とかかった費用を全て足せば、十八と半リゴットになる。あの商会の男が厚顔無恥《こうがんむち》にも言い放った、十七リゴットという報酬《ほうしゅう》を受け取れば赤字になる。  貴族は贈与《ぞうよ》と受領の習慣の中に生きるが、商売は贈与と受領を単純に足し合わせたものではない。  相手になにかを渡《わた》したのなら、それ以上のものを受け取らなければならない。  そうしなければ、飢《う》えてしまうのだから。 「だが、私もあのまま引き下がるつもりはなかった」 「左様でございますか」  まっすぐ前を向いたまま歩き、こちらを見ることすらしないオーラーの態度に、さすがにフルールもむっとする。 「この私が言い返せもしない臆病《おくびょう》者だとでも?」  そして、そんな言葉には、即座《そくざ》にこちらのほうを向いた。 「いいえ。ですが、お嬢様《じょうさま》があそこで頑《かたく》なに契約《けいやく》は二十リゴットであったと主張したところで、それを示す証拠《しょうこ》はございませんからな」 「私は確かにあの者からそういう契約だと聞いた。それを疑うのか?」 「そうではございません。ですが、水掛《みずか》け論《ろん》ほど見苦しいものはございませんし、往々にして、では互《たが》いの間を取って手打ちにいたしましょう、と考えるのが普通《ふつう》でございます」 「だから、二十五リゴット、と言ったのか」  オーラーはうなずく。  疲《つか》れたようにうなずくのは、きっと、それが今更《いまさら》教えるのも億劫《おっくう》なほど、商人たちには明白なことだからだろう。  そう。オーラーは生まれてこの方の生粋《きっすい》の商人であり、一時は大きな商会の帳簿《ちょうぼ》を任されていた人間だ。  フルールのことをお嬢様と呼ぶのは、ボラン家先代当主の頃《ころ》から付き合いのある御用《ごよう》商人が他《ほか》ならぬオーラーの元主人であり、頻繁《ひんぱん》に家に出入りをしていたからだった。  ただ、フルールがそろそろ嫁入《よめい》りのことを考える時期になる頃には、先代が病没《びょうぼつ》し、元から傾《かたむ》きつつあった家はいよいよ没落寸前となり、オーラーの属する商会とは無縁《むえん》になっていた。  それが再び相|見《まみ》えたのは、オーラーの元主人が、フルールの夫となる契約を結びに来た日のことだ。  それほど昔のことでもないのに、今ではとっくに色|褪《あ》せた記憶《きおく》の奥にある出来事だった。 「それで、お嬢様。向こうで干草《ほしくさ》を何リゴットでお買い上げに?」  物思いは一瞬《いっしゅん》のこと。  現実はいつでも動いているし、常に自分の目の前にある。  没落しかけた家は富裕《ふゆう》な商人に買われて持ちなおし、その富裕な商人も破産したことでついに完膚《かんぷ》なきまでに没落した。  干草を何リゴットでお買い上げに?  そんな質問をされることが、ちょっと笑ってしまうくらいに奇妙《きみょう》で不思議なことだった。 「ニリゴット」  しかし、フルールも社交場で表情を取り繕《つくろ》う訓練を積んだ貴族の出。  さも当然のことのように言ってやると、オーラーは無表情のまま大袈裟《おおげさ》に両|腕《うで》だけを上げ、速度を上げて歩き出す。  どうやら、本気で怒《おこ》らせてしまったらしい。  商会の男から支|払《はら》われたのは、鰊《ニシン》を内陸の村に送り届けた代金と、帰り荷に積んできた干草の代金を全《すべ》て合わせたものだった。  だとすれば、鰊と経費を合わせて十八と半リゴットで、さらにそこに干草のニリゴットを付け加えれば、二十リゴットの支払いですら赤字になる。  そんなことは当然わかっていた。  それでも、フルールにだって言い分がある。  怒って早足になっているオーラーに追いつき、隣《となり》に並んだ。 「村の人間はひどい暮らしようだったんだ。草を刈《か》るための鎌《かま》にもひびが入り、直さないとならないと言っていた。ニリゴットでなければ暮らしていけないと嘆《なげ》かれたんだ」 「左様でございますか」  素っ気ない返事。  平民のオーラーに対し、没落《ぼつらく》したとはいえ貴族の自分。  むっとして、気がついた時には口にしてしまっていた。 「私を嘘《うそ》つき呼ばわりするつもりか?」  オーラーはいったん足を止めたが、フルールを見ようとはせずにまた歩き出す。その速度は、止まる前よりも速い。誰《だれ》が悪いのかは明々白々。フルールはもはやオーラーを雇《やと》う貴族ではなく、オーラーから生きる術《すべ》として商《あきな》いの仕方を学んでいる身に過ぎないのだから。  狭《せま》い路地を走り、再度オーラーの隣に並んだ。 「……悪かった、オーラー。だが、お前は私をお嬢様《じょうさま》と呼んだ。それで腹が立っていたんだ」  そして、その言葉には、完全に足を止めた。  フルールは止まりきれずつんのめって、数歩先に出る。  振り向くと、オーラーは苦笑いを浮かべていた。 「良い商人は、良い言い訳から、でございますな」  フルールは肩《かた》をすくめ、それから、オーラーの背負う荷物を少しだけ持った。  やがて、路地を抜《ぬ》けた先の似たような家が立ち並ぶ一画に、我が家が見えてきたのだった。 「それで、お嬢様は苦労して損をこさえてこられたのですか?」  女中のベルトラは素直《すなお》だ。  だから、思ったことがそのまま口をついて出る。 「損ではない」 「ではなんなのです?」  背も低いし歳《とし》も一つ下。  身分の違《ちが》いでいえば天と地ほども違う。  しかし、家計を預かる身としての迫力《はくりょく》を前に、フルールは抗《あらが》う術《すべ》を持たない。  金がなければ明日のパンを買うこともできず、貴族の頃《ころ》はそれでも家名と誇《ほこ》りにすがることができたが、今やそれも大した慰《なぐさ》めにはならない。  外した頭巾《ずきん》と外套《がいとう》を片づけるふりをして、その場から逃《に》げようとした。 「お嬢様《じょうさま》、私は無学な女でございますけれども、オーラー様の仰《おっしゃ》ることくらいは理解しております」 「お嬢様と呼ぶのはやめろ」 「やめません。お嬢様!」  フルールはベルトラの制止を振《ふ》り切って隣《となり》の部屋に逃げ込んだ。  扉《とびら》の向こうでベルトラがため息をつくのが聞こえてくるが、フルールはそのまま部屋を抜《ぬ》けて廊下《ろうか》に出て、洗い場を経由して二階に上がる。  階段の途中《とちゅう》に設けられた木窓からは、ベルトラが丹念《たんねん》に手入れをしている中庭が見える。野菜やちょっとした香草《こうそう》、薬草ならば全《すべ》てそこで事足りてしまう。それどころか余った物は市場に持っていくと肉に換《か》えられるほどのもの。  では、自分はこの家になにを持ち帰ったのか。  わかってはいたけれども、改めてこの家の家計を取り仕切るベルトラから怒《おこ》られると言い返しようがない。  足し算など見習いの小僧《こぞう》にだってできる。  しかし、干草《ほしくさ》をニリゴット以下に値切ることなどできなかった。わかっていてもできるわけがない。元は自分の家の領地だった場所に住む、生活に困窮《こんきゅう》した者たちからわずかの収入を奪《うば》うことなど。 「お嬢様」  と、部屋の扉がノックされ、聞き飽《あ》きたオーラーの声が届く。  昔ならば、ぼろの扉ではあっても自分の机から扉まで優に二十歩はあった。  今は、扉を開けるのに大きく三歩歩くだけでいい。 「お嬢様はやめろ」  扉を開けると、無表情のオーラーがいた。 「ベルトラが泣いております。お嬢様が話を聞いてくれないと」 「……」  情け容赦《ようしゃ》がないとはこのことだろう。  オーラーは人が嫌《いや》がること、喜ぶことを本人以上に熟知《じゅくち》しているところがある。  それが商売をうまくいかせる秘訣《ひけつ》だとオーラーは言うが、その技能は教育についても役立つらしい。赤字をこさえることがどれほど罪深いかをわからしめるのに、ベルトラを使うこと以上に効果的な方法もない。  フルールは降参したようにうなずき、もう一度大きくうなずいてから、深呼吸をした。 「わかった。わかったよ」 「それで?」 「ベルトラに謝る。そして彼女の話をきちんと聞く」 「……」 「それと、食事を決して残さない」  オーラーは笑顔《えがお》になって、「しばしご休憩《きゅうけい》を」と言い残して扉《とびら》を閉じる。やれやれとため息をつきながらも、つくりの悪い椅子《いす》に腰掛《こしか》けた時、フルールは笑顔だった。  家屋敷《いえやしき》は全《すべ》て取り上げられ、各種の特権は売り払《はら》われ、使用人たちはばらばらに。流れ着いた先は雇《やと》われ職人や身分の低い役人の住む住宅地で、自分の馬を飼うどころか、豚《ブタ》を飼えていたら御《おん》の字《じ》という貧しさだ。  絵に描《か》いたような没落《ぼつらく》貴族の顛末《てんまつ》だが、フルールは毎日を辛《つら》いことだとは感じていなかった。  確かに、商人連中を相手にすることは貴族としての常識とあまりにもかけ離《はな》れていることが多い。時折腹立たしく思うこともあるが、かといってできないことでもない。  なにより、オーラーが余生を教育係|兼帳簿《けんちょうぼ》係として過ごすと申し出てくれたことと、使用人の中で最も仲の良かったベルトラが引き続き身の回りの世話をしてくれると言ってくれたことだけで、心安らかに過ごすことができた。  世の全てが敵に回ったわけでも、自分にボラン家の名前だけの価値しかなかったわけでもない、と彼らが教えてくれた。  人が生きていくのには、どうやらそれだけで事足りるらしい。  ただ、そんな生活を維持《いじ》するには金が必要だということもわかっている。  つまり、損を出している場合ではないということだ。 「私はもう、商人なのだからな」  口に出して自分に言い聞かせてから、階下のベルトラに謝りに行ったのだった。  翌日の昼|頃《ごろ》のこと。  ようやく口に慣れてきた麦|粥《がゆ》を食べ終えると、おもむろにオーラーが言った。 「干草《ほしくさ》の質が良かったとのことですが、だとすれば馬の取引などよいかもしれません」 「馬?」 「海を渡《わた》った先の大陸の、はるか南のほうですが、近々|戦《いくさ》が起こるようです。戦が起これば馬は信じられない値段で飛ぶように売れる。それこそ、翼《つばさ》の生えた天馬のように」  オーラーの情報収集力を見くびるわけではないが、フルールは疑わしげに聞き返す。 「うまい商売ならばすでに誰《だれ》かがやっているのでは?」 「一番手になる必要はありません。本当に儲《もうつ》かる商売ならば、二番でも三番でも、十分でございます」  オーラーは喋《しゃべ》りながら、カビの生えた黒パンの悪い部分だけを削《けず》って口に運ぶ。  最初はかびたパンを食べるなど、と眉《まゆ》をひそめていたものの、一度ならず商用の旅に出るとそんな些細《ささい》なことは気にならなくなる。それに、フルールが知らなかっただけで屋敷《やしき》にいた頃《ころ》も厨房《ちゅうぼう》では同じことをしていたという。  事実をベルトラから聞いた時は、驚《おどろ》きと共に、変に納得《なっとく》するところもあったりしたのだが。 「では、馬か」  馬はどこでも高級品だが、その代わりに維持《いじ》に金もかかる。  まだ家屋敷《いえやしき》とボラン家の名前に多少の価値があった頃《ころ》、些細な収入の大部分を占《し》めていたのは、農民たちが馬や豚《ブタ》の餌《えさ》を採取する際に払《はら》う森の使用料だった。  干草《ほしくさ》の質が良くて値段が上がっているのなら、維持費をまかないきれなくて馬を手放したがる者もいるかもしれない。 「昨日の代金を受け取りがてら、商会の人間に話を持ちかけてみよう」  フルールは、ベルトラがせっせとカビを取り除いてくれた黒パンで深皿の粥《かゆ》を拭《ぬぐ》いながら言った。 「もう、損はこさえないでくださいましね」  ベルトラの言葉には、うなずきつつも、小さな苦笑い。  ただ、ひょいと視線をあらぬほうに向けたのは、別にベルトラの言葉のせいではない。 「あら、またどこかから入り込んで」  フルールの視線の先を追ったベルトラが、椅子《いす》から立ち上がりざまにそんなことを言う。  厨房と洗い場に続く戸口のところに、片手で抱《かか》えられそうな仔犬《こイヌ》がちょこんと腰《こし》を下ろしていたのだ。 「麦の袋《ふくろ》を破いたのはこの犬かしら」  森と草原に囲まれた屋敷にいた頃は想像もできなかったほど、町の中という場所には動物が多い。ベルトラはそれが頭痛の種らしかったが、フルールにとってはその逆だ。 「ほら、おいで」  ベルトラが近づくと腰を浮かして逃《に》げかけた仔犬は、フルールが手にしていたパンのかけらを見て勇気を奮い起こしたらしい。すっくと四つの足で立つと、ベルトラの足元を走り抜《ぬ》けてフルールの下《もと》にやってきた。 「お嬢様《じょうさま》」  日々を厨房に侵入《しんにゅう》する鼠《ネズミ》や猫《ネコ》や犬と戦うことに費《つい》やすベルトラは、批難がましく声を上げる。  フルールが顔を上げたのは、仔犬《こイヌ》がパンを食べ終えてからだ。 「夫は人から奪《うば》うばかりだったからな。私はそうはなりたくないんだ」  仔犬であっても世の仕組みを理解しているらしく、餌《えさ》を貰《もら》えば一時の忠誠を誓《ちか》う。  フルールが頭を撫《な》でる間じっとして、憎《にく》いことに尻尾《しっぽ》まで振《ふ》る。  ただ、残念ながら仔犬は騎士《きし》ではないし、自分はもはや貴族ではない。  ベルトラが歩み寄ってきて、仔犬を抱《だ》きかかえると近くの窓から通りに放《ほう》り出した。 「お嬢様《じょうさま》は、お優《やさ》しすぎます」 「下々《しもじも》の者として暮らすには?」  意地悪な質問であるとはわかっていた。  ベルトラは案《あん》の定《じょう》言葉に詰《つ》まって、あとをオーラーが引き継《つ》ぐ。 「お嬢様が奥様でいらした頃《ころ》のことは重々承知しておりますし、私の元|主《あるじ》も、まあ、概《おおむ》ね褒《ほ》められた御仁《ごじん》ではございませんでしたが、それでも私共は商《あきな》いで金を稼《かせ》がねばならないのです。それとも、お嬢様は他《ほか》にお金を稼ぐ手立てがおありで?」  没落《ぼつらく》した貴族の行く末を知らないほど世間知らずではない。  若い女の身であれば、それこそ可能性など限られる。 「分け与《あた》える前に蓄《たくわ》えよ。丘《おか》の上の家の者がそんなことを口にすれば、名家の名が泣いてしまう」 「代わりに、良き領主の帳簿《ちょうぼ》係はいつも泣くことになります」 「そうだな。そして、私はベルトラの泣き顔を見たくない」  残ったパンのかけらを口に放り込んで、フルールは立ち上がった。 「では、商いに行ってくる。次は損を出さないように」  屋敷《やしき》にいた頃よりも、若干《じゃっかん》くすんだ色合いのエプロンを握《にぎ》り締《し》めて事の推移《すいい》を見守っていたベルトラは、それでようやくほっとしたように笑顔《えがお》になって、こう言ってくれた。 「行ってらっしやいまし」  ここが広くて綺麗《きれい》な屋敷であるかないかなど、フルールの笑顔には関係なかったのだった。  凍《こお》りつけば川といえどもその流れを止めなければならないように、冬になると船はおろか、北のほうでは港そのものが凍りつく。そのため、春になればその憂《う》さ晴《ば》らしとでもいわんばかりに船の往来が激しくなる。  という説明をオーラーから聞いてはいたが、なるほどそんな言説も信用できるというものだ。  よく晴れたその日、港の荷揚《にあ》げ場はいつになく大|盛況《せいきょう》だった。 「では、こちらが代金です」  二十リゴットの支|払《はら》い金額を、あろうことか十七リゴットに値切ろうとした割には、金を支|払《はら》うのをためらうような素振《そぶ》りを見せるわけでもない。  商人という生き物は概《がい》して不思議な連中ばかりなのかもしれない。  フルールはそんなことを思いながら、昼食の時にオーラーから聞いた話を、商会の男に振《ふ》ってみた。 「馬を?」 「そう。戦《いくさ》が起こるのであれば必要になると聞いた」 「ええ、確かにそうですが……馬、ねえ」  羽根ペンで自分の顎《あご》を掻《か》きながら、男は軽く顎を上げて目を閉じる。 「馬の飼料を手に入れるには、森の使用料を支払わないとならないだろう? 干草《ほしくさ》も高いとなれば、維持《いじ》に金がかかって」 「手放す者たちも出てくるはずと。そういうわけですか」  騙《だま》されないためには、相手が話している間に相手の言いたいことを全《すべ》て把握《はあく》して、喋《しゃべ》り終わるまでにその対策を練らなければならない。  オーラーはそう言っていたが、どうやら彼らはそんな化け物じみた芸当をすんなりとやってのけられるらしい。  フルールがうなずくと、男は「ふむ」と呟《つぶや》き、辺りを見回してからこう言った。 「そのことに気がついたのは、自分が初めてである、とお考えに?」  馬鹿《ばか》にしくさった物言いなのは、頭巾《ずきん》で顔を隠《かく》していようとも自分が若い女であるとわかっているからだろう。 「いいや。しかし、二番目でも三番目でも、儲《もう》かる話なら十分に儲かるはずだから」  とオーラーが言っていた。  フルールが胸中でその言葉を付け加えていると、男はつい笑ってしまったといった感じに口元を手でこすった。一矢《いっし》報《むく》いてやった、と顔に出したらこちらの負け。  フルールは、頭巾の下でそ知らぬ顔。 「失礼。どうやら日々成長なさっているらしい。確かにその通りです。我々はごらんの通り日常の業務で手《て》一杯《いっぱい》ですから、この上さらに馬を仕入れるところまで手が回りません。ですから、貴女《あなた》様が調達してきていただけるのでしたら、それを買い取らないこともない」  商人たちは必ず話の最後の部分を曖昧《あいまい》にする。 「買うのか買わないのか?」  重ねて聞くと、男の顔がむっとする。 「やせ細った駄馬《だば》を連れてこられても買えませんからね。明言はいたしかねます」  自分のことを信用できないのか、と怒《おこ》るのは貴族のやることだ。  フルールは、それもそうかと思い、ひとまず謝った。 「もっとも、馬でしたらうちが買い取れなくても欲しがる入はたくさんいるでしょうからね。相場を把握《はあく》して、それなりの値で買ってくれば売れなくて困ることもないでしょう」 「なるほど」 「ただ」 「?」  男は帳簿《ちょうぼ》を閉じ、小脇《こわき》に抱《かか》えて言葉を続けた。 「難しいとは思いますね。なにせ馬は生きていますから。買った時は名馬でも、持ってくる間に駄馬《だば》に変わるなんて珍《めずら》しいことではない」 「それは、確かに……」  屋敷《やしき》にいた頃《ころ》も、馬の管理は大変だと聞いていた。  なにより、荷馬車を借りてあちこち行く過程で、馬の気まぐれは嫌《いや》というほど知っている。  苦労して持ってきた馬が安値で買い叩《たた》かれるとなれば、ベルトラでなくとも泣いてしまいかねない。 「そこで、いかがでしょう」 「うん?」 「馬を仕入れられるくらいの資金がおありでしたら、別の商売をなさっては」 「別の、商売?」  男はにっこりと微笑《ほほえ》んで、小脇に抱えていた帳簿を再び手に取り指をなめなめめくっていく。 「腐《くさ》らず、病にかからず、餌《えさ》も世話も必要ではない。そんな商品ならば心得がなくとも大きく失敗することはございません。馬が高値で売れるのも、管理に手間がかかるからなのです」  いちいち男の言うことはもっともだ。  それに、嫌な奴《やつ》だという認識《にんしき》があっただけに、親切にあれこれ教えてくれてちょっと面食らっていることもあった。  いつの間にか、すっかり話に引き込まれていた。 「それで、その商売とは?」 「はい。服ですよ」 「……服」  繰《く》り返すと、男はちょうど探していたところが見つかったようで、帳簿をこちらに向けて見せてくれた。 「こちらの数字が、仕入れの代金。こちらが、売った代金。利幅《りはば》は、馬ほどではございませんが……上から下まで全《すべ》ての商品で利益が出ているでしょう?」  それが事前に相手を騙《だま》すために用意したものでなければ、確かに男の言うとおりだった。  そして、自分と話している間にそんな細工をする時間は存在しなかった。  フルールはそう判断し、素直《すなお》にうなずいた。 「手堅《てがた》い商品です」  男は言葉と共に、帳簿《ちょうぼ》を閉じた。  代わりに開いたのは、フルールの口だ。 「しかし、どんな服を仕入れれば?」 「それはご自身のご判断で」  至極《しごく》当然といえば当然だが、着る物|履《は》く物、全《すべ》て他人に任せていたせいで服のことなどよくわからない。  フルールが、ひとまずオーラーに相談すべきかと迷っていると、男はふと手を打ってこう言ってきた。 「そうそう。当商会が懇意《こんい》にさせていただいている方に、服の目利《めき》きがいらっしゃいましてね」 「目利き?」 「はい。時折、当商会が仕入れた服を代わりに売っていただいているのですが、大変優秀な方でありまして。右から左に服が売れていくほどでした。そのお方が、今度は仕入れから担当したいと仰《おっしゃ》ってましてね。資金を出してくれる方を探しておりまして」  フルールは、元々自分の頭はそれほど明敏《めいびん》ではないと自覚しているが、それにしても商人たちの言うことはいまいち話の内容が掴《つか》みにくい。  そのせいか、なにか話の中に妙《みょう》なものを感じてしまう。 「それは……私が資金を出して、儲《もう》けを共有すると?」 「はい。貴女《あなた》様は儲けと共に、服の仕入れの知識を得る。相手様は、仕入れから全てを担当することでより大きな儲けを得るという形です」 「それは……」  悪い話ではないのではないか。  そんな話を振《ふ》ってくれるとは、やはり世の中そうそう悪人ばかりではないということか。  フルールがそう思っていると、男はまたしばらく帳簿をめくったあとに、一つの名前を教えてくれた。 「その方の名は、ミルトン・ポースト」  貴族のような名前だった。  懐《ふところ》に現金があるとつい買い物をしてしまう。  ベルトラが食べたがっていたチーズに、オーラーが絶賛していた、とある村の名を冠《かん》したぶどう酒を買って家路に就《つ》いた。  無駄《むだ》遣《づか》いができるほど家計に余裕《よゆう》はないが、二人は自分への贈《おく》り物《もの》に対して眉《まゆ》をつり上げるほど心の余裕を忘れているわけでもない。  それに、新しい商売の手がかりも得た。 「服の売買、ですか」  手で持てる程度の小さな樽《たる》での量り売りではあったが、オーラーはぶどう酒をいたく気に入ったらしく、何度も香《かお》りを吸い込んでは目を閉じて唸《うな》っていた。  フルールが商会の男から聞いた話をしても、聞いているのかいないのかよくわからない。 「そう。手を出してみても……オーラー」  その名を呼んで、ようやく視線をこちらに向けたくらいだ。 「失礼。大変|懐《なつ》かしく、芳醇《ほうじゅん》な香りに……それで、服の売買でしたね。それを?」 「あの商会が仕入れた服を、商会の代わりに販売しているという男がいて、その男が今度は自分で仕入れから販売までやってみたいと言っているらしいんだ」 「なるほど……」  もう一度、立派な鷲鼻《わしばな》からぶどう酒の香りを吸い込んで、オーラーは息を止めた。  気障《きざ》な貴族だってここまでやりはしない。  フルールはついに怒《おこ》るのも忘れて、往年の伊達《だて》男《おとこ》の振《ふ》る舞《ま》いに笑ってしまっていた。 「名は、ミルトン・ポースト」  ただ、その名を告げた瞬間《しゅんかん》、深い皺《しわ》の刻まれた瞼《まぶた》がぱかりと開き、隙間《すきま》から鋭《するど》い視線がきらめいた。 「ポースト家の?」 「知っているのか」 「……ふん。ええ、もちろんですとも」  最後の一嗅《ひとか》ぎ、とばかりにぶどう酒の香りを吸い込んで、オーラーは樽に栓《せん》をしてテーブルの上に置いた。昼と夕方のちょうど合間のこの時間は、ベルトラが市場に買い物に出ているので家の中は静かだった。 「御《ご》領主が、元々は騎士《きし》で名を馳《は》せた御仁《ごじん》でございまして、それはそれは勇猛《ゆうもう》で、また雅《みやび》な方でした。流した浮名《うきな》は数知れず。その上、慈悲《じひ》深く、家族思いの方でございまして、ポーストの名を継《つ》いだ者の数はおおよそ三十はくだらない、と言われているほどです」  兄弟姉妹が多い家は珍《めずら》しくはないし、側室が二人や三人いるのだって当たり前だ。  しかし、腹違《はらちが》いの子供たちを入れると名前をつける時に聖典を参照したって追いつかない、というのは笑い話でこそ聞くものの、実際にそれほどの数の子がいるのは珍しい。  なるほど有名にもなりそうではあった。 「まあ、全《すべ》てのお子様に領地を分け与《あた》えるというのは無理でしょうから、おそらくその方は家を出た方のうちの一人なのでしょう。商会の仕入れた服を代わりに販売、と仰《おっしゃ》いましたか」 「ん……ああ、え?」  生返事《なまへんじ》のうえに聞き返してしまったのは、どこからか逃《に》げ出してきたのか、それとも誰《だれ》かが買ってきたままつなぐのを忘れていたのか、窓の外を歩いていた山羊《ヤギ》が窓|枠《わく》に置かれた鉢植《はちう》えの前で口をもぐもぐとさせているのに目を奪《うば》われていたから。  奇妙《きみょう》な光景につい見惚《みと》れていたフルールは、慌《あわ》ててもう一度返事をした。 「あ、ああ」 「……まあ、おそらくは、貴族様方相手の商売でしょうな。私共も、往時はそんな商売をしていることもございました。食い詰《つ》めた貴族様の次男坊《じなんぼう》や三男坊を雇《やと》いましてね。なぜそんなことをするかといえば、豪著《ごうしゃ》な服を売り込みに行っても、苗字《みょうじ》が『靴《くつ》屋の』とか『鍛冶《かじ》屋の』という者たちでは門前払《もんぜんばら》いを食らいますからな。それに、貴族様方の流行はとみに移ろいやすい。彼らの名前と知識を使って、売り込みに行くわけでございます」 「なるほど……」 「それで、そのポースト某《なにがし》とはお会いに?」  山羊《ヤギ》は結局|鉢植《はちう》えの葉っぱを食べられないものだと判断したのか、一声|啼《な》くと、のんびりした様子でいずこかに歩いていってしまった。 「いいや。焦《あせ》らずにオーラーに相談してからのほうがいいかと思ったから」 「左様ですか。だいぶお嬢様《じょうさま》も目を開かれてきたようでございますね」 「すでに過去、自分一人で判断して痛い目を二度見ている」  オーラーは笑い、それからおもむろに咳払《せきばら》いをすると、机の上に並べられた、フルールが受け取ってきた二十リゴットから無駄遣《むだづか》いを差し引いた分の貨幣《かへい》を指差した。 「?」  と、フルールが首をかしげていると、小さいため息が漏《も》れ聞こえてきた。 「しかし、まだまだ覚えることは多く、道は険しい。お嬢様が受け取ってきたこの貨幣」 「貨幣? 金額が違《ちが》うか?」  そんなはずはない、と言おうとしたところに、オーラーが小さく首を横に振《ふ》った。 「縁《ふち》をこんなに削《けず》られた貨幣では、両替商《りょうがえしょう》に持っていってもまともに取り合ってはくれんでしょうな。へたをすれば価値の一割減は覚悟《かくご》しなければならない」  フルールが慌《あわ》ててテーブルの上の貨幣に目を向けると、確かにそこにある貨幣のうちの何枚かは、ひどく縁が削れて歪《いびつ》な形になっていた。 「まあ、一遍《いっぺん》にお教えしても覚えられはしませんからね。一つずつで結構。もっとも」 「……もっとも?」 「商会の小僧《こぞう》のように、鞭《むち》で叩《たた》いて捧で殴《なぐ》ってもよいと仰《おっしゃ》るのなら、話は別でございますが」  珍《めずら》しいオーラーの冗談《じょうだん》だ。  ぶどう酒のお土産《みやげ》はことのほか気にいってくれたらしかった。 「晩餐《ばんさん》会で一度手を叩かれたことがあってね。一週間は泣き伏《ふ》せた」  オーラーは楽しそうに笑い、貨幣を一まとめにして木箱に入れて、蓋《ふた》をした。 「では、それはまた別の機会に」 「そう願う」 「それで、お嬢様《じょうさま》は持ちかけられたその服の売買に関するお話について、どう思われたのですか?」  急な話の転換《てんかん》に面食らってしまう。  頭を切り替《か》えるのが間に合わずに、すぐ思いついたことを口にしてしまっていた。 「いいのではないか、と思ったよ」 「左様ですか」  オーラーは素っ気なく返事をして、テーブルの上に広げられた、年季の入った帳簿《ちょうぼ》に羽根ペンで数字を一つ書き加える。  フルールが持ち帰った貨幣《かへい》の枚数で、一番右|端《はし》には、悲しいかな損が書き加えられた。 「まずい、か?」 「いいえ。お嬢様がそう判断されたのであれば、よろしいと思いますよ。商会の人間が言ったように、馬は死んだり病にかかったり怪我《けが》をしたりいたしますが、服はきちんとしまっておけば何年も変わらずに保《も》ちますから。昔は、服の仕立ての注文を出してから、最後にこうして帳簿に損得を書き入れるまでに三年かかることもまれではございませんでした。大きな損は出にくい商品ですから、まあ、練習には最適でしょう」 「じゃあ」  フルールが言うと、オーラーは大きくうなずいて、こう言った。 「お嬢様が取り仕切る仕事としては、三回目でございますね」  屋敷《やしき》の生活で自分に任されたことといえば、出てくる服を着て、食事をすることだけ。家の隆盛《りゅうせい》や没落《ぼつらく》にも、伴侶《はんりょ》の選択《せんたく》にもまったく関与《かんよ》できない生であり、ただ、そこにいて、ただ、周りに従うだけ。  商《あきな》いの慣習には未《いま》だに慣れていないし、商人たちは嘘《うそ》つきで捉《とら》えどころがなく、できれば会話をしたくないと思うこともある。  それでも、自分の手でなにかをする、というのは非常に魅力《みりょく》的だった。  フルールは、一度小さく深呼吸をしてから、はっきりとうなずいた。 「ただし、私の助言にはきちんと従うこと。よろしいですね?」  持ち上げて、喜ばせておいてから釘《くぎ》を刺《さ》す。  ここで不機嫌《ふきげん》な顔をすると、不合格。  フルールは学習したことをきちんと活かし、「もちろんだとも」と言葉を返す。 「神のご加護がありますように」  オーラーが呟《つぶや》きながら帳簿を閉じ、それを見計らっていたかのように、ベルトラが市場から帰ってきたのだった。  元貴族。血縁《けつえん》が貴族。現に貴族。  あれこれあろうが、仰々《ぎょうぎょう》しい名前と苗字《みょうじ》を持った者というのは意外にあちこち闊歩《かっぽ》しているものだ。  その多くは、往時のことが忘れられずに、あるいは、それを生きる糧《かて》として使っている。  もちろん、フルールのように、没落《ぼつらく》しかけた家ごと成金の商人に買われ、挙句《あげく》完膚《かんぷ》なきまでに没落してしまった家などになると、その名は重荷にしかならなくなってしまう。  だから顔も頭巾《ずきん》で隠《かく》し、名前も滅多《めった》に名乗らない。  仕事はオーラーが昔の伝《つて》を辿《たど》って集めてくるので、時折ばれることもなくはないが、概《おおむ》ね同情を示して黙《だま》っていてくれている。  ただし、今回ミルトンを紹介《しょうかい》してくれたところは、フルールが自分で仕事を取ってきたところなので、元貴族であることはばれていないはずだった。  それなのに。 「どちらかの晩餐《ばんさん》会でお会いに?」  紹介を受けて会ったミルトン・ポーストは、握手《あくしゅ》をした直後にそう言った。  金色の髪《かみ》を綺麗《きれい》に撫《な》でつけた若い男で、着ている服はさほど上等のものでもなかった。  しかし、きちんと手入れをされているのがよくわかり、握手をするために二歩前に出なければ、きっと良家の子息と言われても誰《だれ》もが信じて疑わないだろう。  翻《ひるがえ》って、フルールの手は柔《やわ》らかい手袋《てぶくろ》しかつけたことのない綺麗な白い手、とはちょっと言えなくなってきている。確かにベルトラの手と比べれば花|摘《つ》みしかしたことのない乙女《おとめ》のようなものではあったが、それでばれたとは思えない。  フルールが動揺《どうよう》して言葉に詰《つ》まっていると、ミルトンは加えてこう言った。 「やはりそうだ。ミラン卿《きょう》の晩餐会で」 「あ」  と、口から言葉が漏《も》れたのは、その名がフルールの出たことのある数少ない晩餐会を催《もよお》した貴族の名であったからだ。 「一度ご挨拶《あいさつ》したのですが。覚えてもらえてなかったようですね」  年頃《としごろ》の娘《むすめ》が晩餐会に行けば、パンに触《ふ》れる回数よりも握手をする回数のほうが多い。  相手の手に触れるような軽いものでも、何十回と繰り返すので家に帰り着く頃には手が真っ赤に腫《は》れ上がっていたものだ。 「まあ、当然でしょうね。貴女《あなた》は注目の的でしたから」  まだ先代が健在で、それほど家も危機に瀕《ひん》していなかった頃の話。  要するに、結婚相手としてはちょうどいい存在だった頃のこと。 「確か、お名前は」 「フルール・ボラン」  久しぶりに名乗るその名前には、懐《なつ》かしさと一緒《いっしょ》に気恥《きは》ずかしさがある。  ただ、それは名前そのものというよりも、名乗ったその場所が港に面した立ち飲みの酒場だったからかもしれない。 「そう。ボラン家の娘《むすめ》様。意地悪で名を馳《は》せているデュアン家の奥様に手を叩《たた》かれて」 「あ!」  今度ははっきりと声に出して驚《おどろ》いても、ここは上品な食事の場所ではない。  すぐに自分の声など喧騒《けんそう》に飲み込まれて、あとに残ったのはミルトンの笑顔《えがお》だけだ。 「あのあと、たくさんの騎士《きし》見習いが貴女《あなた》のあとを追いかけようとしていたんですよ。ご存じなかったでしょう?」  ミルトンが炒《い》った豆を口に運ぶのは、どうしても笑ってしまう口元を隠《かく》そうとするためかもしれない。  しかし、そんな気遣《きづか》いが余計に恥ずかしくて、フルールは顔に頭巾《ずきん》を巻いていてもなおどこかに隠れてしまいたかった。 「ただ、そのあとのことは……同情を禁じ得ません。悪く言う方もいらっしゃいましたけどね」  それが、一週間泣き暮らしたことを指し示しているのではないことくらい、フルールにもわかる。  頭巾《ずきん》の奥で気を落ち着け、深呼吸をしてから、うなずいた。 「なにせ、我々は我々の行く末を自分の手では決められませんから。あれこれ言えるのは、数少ない幸運の椅子《いす》に座れた方だけです」  ぶどう酒のなみなみと注《つ》がれたジョッキを持つミルトンの手は、なるほど、貴族というには少し荒々《あらあら》しい。かといって槍《やり》試合に明け暮れる騎士《きし》ほど無骨でもなく、それはやんちゃ盛《ざか》りの甥《おい》っ子《こ》のような手だった。 「私は家ごと」  フルールが言うと、ジョッキに口をつけていたミルトンが、「え?」と聞き返す。 「私は家ごと椅子から滑《すべ》り落ちた。それでも、居場所というのはあるらしい。それがまさか商《あきな》いの地とは思わなかったが」  ミルトンはうなずき、港のほうを眩《まぶ》しそうに眺《なが》めてから、口を開く。 「私は二番目の側室の三男でしたからね。家を出る時に与《あた》えられたのは猫《ネコ》の額ほどの土地ですらなく、ポーストの名前と、わずかな金貨だけ。槍試合に明け暮れ、いつか名家の娘《むすめ》を射止められそうなほどの馬や装備を整えられもせず、かといって詩を吟《ぎん》じて召《め》し抱《かか》えられるほどの才もない。まあ、そんなことは概《おおむ》ね予想できていましたから、特に慌《あわ》てもしませんでしたが」 「それで、商いを?」  家が潰《つぶ》れなくとも帰るべき家から追い出されてきた者はいる。  ミルトンが再び豆を口に運んだのは、苦笑いを消すためだったのかもしれない。 「幸い、ポーストの名を使えば大抵《たいてい》の家の扉《とびら》は開けられますからね。それに、酒とうまい食事と馬鹿《ばか》話が好きだったので、あちこちの食卓《しょくたく》に顔を出してもいました。町をふらふらしていたら、そんな人間を必要としているところがある、と小耳に挟《はさ》みまして。確かに、居場所というのはどこにでもあるようです」  金で自分の夫に納まった男が死に、家が完全に没落《ぼつらく》して屋敷《やしき》を引き払《はら》う時、特に取り乱しもしなかったフルールを、家中の使用人が賞賛したものだ。  しかし、それは別にフルールが特別|芯《しん》の強い娘であったから、というわけではなかった。  ただ流されるままに生きてきたのだから、流れに身を任せただけのこと。  目の前のミルトンからも、そんな諦《あきら》めに似た強さが感じ取れた。 「商売はうまくいっている、と」 「はは。面と向かって言われると気恥《きは》ずかしいのですが、一応の自信はあります」  家の権威《けんい》を笠《かさ》に着たり、取り巻きの手柄《てがら》を自分のもののようにして話す者はたくさんいた。  目の前のミルトンは、確かに家を出て商会の商品を売り捌《さば》く身になりはしても、そこにしっかりとした芯のようなものがあった。  天使のようにずっと天界にいられる身ならばまだしも、羽が取れて下界に下りてきたのであればいつまでも浮世|離《ばな》れしているわけにもいかない。  地に足がついているミルトンを、フルールは正直|羨《うらや》ましいと感じていた。  だから、その言葉が口をついて出てしまったのも、ほとんど無意識のことだった。 「その、秘訣《ひけつ》は?」  こと商《あきな》いにおいて、その秘訣をべらべら喋《しゃべ》るような者は商人ではない、とオーラーに以前言われたことがある。  口にしてからそれを思い出し、馬鹿《ばか》な質問だっただろうか、とやや後悔《こうかい》する。  ミルトンは実際に軽く目を伏《ふ》せ、口元の笑みは作り笑いのように見える。  ただ、フルールが自分の言葉を取り繕《つくろ》おうとしたその瞬間《しゅんかん》、ミルトンは視線を上げてこう言った。 「開きなおることですよ」  一瞬意味がわからずに、その綺麗《きれい》な青い瞳《ひとみ》を見つめ返す。 「開きなおることです。同じような商売をしている連中はもちろんたくさんいますけどね、大抵《たいてい》の奴《やつ》らは、親しかった知人に何着か服を売ったりすると、もうそれ以上売れなくなる。それは、まだどこかに自分は服を買う側《がわ》と同じ場所にいる、という気持ちがあるからなんですよ。最初の何着かが売れるのは、買う側がそれを察して、同情して買うからです。でも、私はそうはしない。ポーストの名は、客に家の扉《とびら》を開けさせて、商売のきっかけを掴《つか》むための糸口に過ぎないと言い聞かせています。そうすれば、相手に蔑《さげず》まれても、嘲笑《ちょうしょう》されても、ひたすらに相手を褒《ほ》め、服の良い点を強調し、売り込めるのです。元々、悪い服を持っていくわけではありませんからね。売れます。それこそ」  怒濤《どとう》のように吐《は》き出していた言葉をぴたりと止め、ミルトンはにっこりと笑う。 「商会の方に重宝《ちょうほう》してもらえるくらいに」  ミルトンは喋り終えるとぶどう酒を飲み、追加のジョッキを注文している。  その間フルールが一言も喋れなかったのは、怒濤のような言葉に圧倒《あっとう》されていたからではない。ミルトンのその一徹《いってつ》な覚悟《かくご》に、胸が詰《つ》まってうまく話すことができなかったのだ。 「はは。ちょっと気障《きざ》でしたね」 「い、いや……」 「でも」  と、ジョッキを運んできた店主に銅貨を渡《わた》しながら、ミルトンは言葉を続ける。 「それもこれも、目的があればこそ、です」  そう言われて、一瞬《いっしゅん》、フルールはその後ろに町娘《まちむすめ》の姿を見てしまった。  しかし、ミルトンの語った内容はまったく別のものだった。 「家のね、家の連中を、見返してやりたいんですよ」  豆を食べるのは笑《え》みを隠《かく》す仕草。  フルールは、じっとそんな仕草に見入っていた。 「ポースト家の名に恥《は》じない、というのとはちょっと違《ちが》うのですが。なんというか、家から追い出されてもたくましくこの通りでかくなれました、とね。胸を張りたいんです。そのためには、いくらでも床《ゆか》に膝《ひざ》をついて頭《こうべ》をたれますよ。一人の、商人としてね」  ぶれのない決意。  粗末《そまつ》な木のテーブルの上に置かれた自分の手が、つと動きそうになっていた。  ここが賑《にぎ》やかな港の酒場ではなく、粗末な木のテーブルが白い布を掛《か》けられた立派なものであったのなら、ミルトンの手にそっと自分の手を重ねていたかもしれない。  思いとどまったのは、ここは貴族の社交場ではないからだ。  目の前にいるのは、自らの目的のためにまっすぐ進むことを決意した人間であり、自分もまた商人であろうと決意した身。  だとしたら、ここでするのは、相手の手に自分の手を重ねることではなく、この言葉を発することだ。 「それで、あなたは……」 「はい」  喉《のど》が詰《つ》まりそうになり、顎《あご》を引いて、力を込めた。 「出資者を探している、とか」  立場に応じて対応を変えるのは商人として当然のこと。  フルールは、相手を商人として、商人らしくその言葉を選んだ。  ミルトンが薄《うす》く笑ったのは、きっと気のせいではなかったはず。 「ええ」  す、と息を吸い込んだ。 「いかほど?」  ミルトンの答えは、今のフルールにも出せないことのない、金額だった。  たっぷりとパンの入ったスープには、豆、タマネギ、昨晩の残りの肉が入っていて、それを深皿に二|杯《はい》も食べれば二日はなにも食べなくていい。それくらいにどっしりとした料理なのに、さらにその上にはあぶったチーズが載《の》せられている。  広い屋敷《やしき》で出されてもなんらおかしくない料理なのは、さすが人手が足りなくて厨房《ちゅうぼう》にも駆《か》り出されていたベルトラらしいといえる。  しかも、ボラン家の財政は常に逼迫《ひっぱく》していたので安い材料でこなすことにも長《た》けている。  歴戦の商人であるオーラーがその原材料費を聞いて舌を巻いているほどなのだから、相当なものだ。  食事時、柄杓《ひしゃく》を手にするベルトラに敵《かな》う者はいない。 「パンは町の検査官が不合格を出した物を安く売ってもらいました。古くて硬《かた》くてそのままではおおよそ食べられないものでございますが、スープに入れればこれこの通り。タマネギは三|軒《けん》隣《となり》の奥様から庭で育ちすぎた香草《こうそう》と交換《こうかん》に。肉は、中庭に迷い込んできた鶏《ニワトリ》でございます」  子供の頃《ころ》、屋敷《やしき》の裏には決して行ってはいけないと厳命されたものだが、それが夕食の材料を捕《つか》まえるための罠《わな》が張り巡《めぐ》らされているからだ、と知った時には感心したものだ。  もちろん罠は年老いた庭師が仕|掛《か》けていたのだが、ベルトラもまた見よう見|真似《まね》で似たようなことをやっているらしく、フルールもオーラーも、単に迷い込んできただけの鶏でないことくらいは十分に承知している。  ただ、豚《ブタ》だの羊だの山羊《ヤギ》だの兎《ウサギ》だのと、食べられる動物が森や草原よりもよほどうろついている町の中では、鶏の一羽や二羽失敬したところで誰《だれ》もなにも言わないだろう。  べルトラの手柄《てがら》話に、オーラーがしきりに感心するのはいつものこと。  いつもと若干《じゃっかん》違《ちが》ったのは、フルールがその食事を食べても、おいしいと評しなかったところだ。 「お嬢様《じょうさま》?」  声をかけられ、危《あや》うくスプーンを取り落としそうになる。  銀食器などとっくのとうに売り払《はら》ってしまったので、錫《すず》でできた安物だ。  ベルトラなどは、時折無性に銀食器を磨《みが》きたくなると言ってはいるが、フルールとしてはこちらのほうが気安く使えて好きだった。 「あ、ああ。おいしいよ」  慌《あわ》ててそう言うと、オーラーとベルトラが揃《そろ》って怪訝《けげん》そうに見つめてくる。 「と、とてもね」  さらにそう付け加えると、二人は互《たが》いに顔を見合わせていた。  フルールはパンをちぎり、そのまま食べる。  硬いパンだが、その分、しばらく喋《しゃべ》らないですむ。 「ポースト家のご子息はなんと?」  どき、という音が確かに聞こえた。  それが相手の耳にすら聞こえていそうなほどだったのに、フルールは目をそらし、噛《か》んでいたパンを飲み下す前にさらにパンをちぎって口に運ぶ。 「あら、またなにか新しい商《あきな》いを始められるのですか?」  家の中のことには信じられないほど目ざといのに、ベルトラは妙《みょう》なところで鈍感《どんかん》だ。  それとも、わかっていてそう聞いてくるのだろうかと疑いたくなるが、フルールは無視してビールを飲んだ。 「商いの原則」  と、フルールが椅子《いす》から立ち上がろうとしたのを見計らったかのように、オーラーが言った。 「相手に入れ込まないこと」  今度は、自分の胸の奥で音はしなかった。  代わりに、冷えた目をオーラーに向ける。  ただし、それで怯《ひる》むオーラーではない。 「商いをうまく順調にいかせるには、たくさんの相手と取引することです。予想もできない困難というものは多々起こり得ますからな。誰《だれ》かの荷が届かなくなった途端《とたん》に破綻《はたん》、といった形だけは避《さ》けるべきものでございます」  じっと無言の睨《にら》み合いが続く。  しかし、顔にも目にも口にもどこにも表情を出さないでいられるようなオーラーに敵《かな》うわけがない。  フルールのほうから目をそらして、深皿を手に取ると、「お代わり」とベルトラに差し出した。 「儲《もう》けに入れ込むのも危険でございます。人間、大きな儲けを夢想すると、それに対していくらでも危険を冒《おか》してしまいがちです。商いとは長く続いてこそのもの。危険は常に避けなければなりません」  オーラーはそう語るが、言葉に力がまったくこもっていないのはよくわかる。  フルールがどうして妙《みょう》な様子なのかは、先ほどの言葉ですでに確認《かくにん》ずみなのだろう。 「誠実な人物だった」 「商人はいくらでも仮面を被《かぶ》ります」 「誠実そうな人物だった」  オーラーはうなずき、続きを促《うなが》してくる。 「儲《もう》けは堅実《けんじつ》だった。私が金を出し、向こうが服を見|繕《つくろ》い、それを売る。概《おおむ》ね、三割から四割の儲けを、折半する」 「服は? どこから? 誰を通じて?」 「海向こうの有名な町だという。仕入れには、商会を使うから心配ないと」  魚の切り身をスプーンの先で二つに割って、小さいほうを口に運ぶ。  丁寧《ていねい》に骨が取ってあるので食べやすい。 「売りつけ先は?」 「これまでの顧客《こきゃく》だから、それも心配ないと」  老練な商人の質問はいったんそこで終わった。  家庭教師の顔色を窺《うかが》う少女のように、フルールは上目遣《うわめづか》いで盗《ぬす》み見る。  オーラーは額に手を当て、つるりと頭頂部まで撫《な》でて軽くため息をついた。  何事かを考えている時の癖《くせ》だ。  フルールは、ミルトンとの会話を思い出す。仕入れの計画から、販売の計画まで、実に念のいったものだという印象だった。  なにせ、これまでうまくいってきたことをそのまま継続《けいぞく》するだけのことなのだ。  違《ちが》うのは、服を仕入れるための金を用意するのが、商会ではなくフルールになるというだけ。  それも、商会の言いなりになって服を販売しているだけでは、あまりにも商会に利益がいきすぎるからというもの。  フルールと組めば、フルールに服の知識や顧客《こきゃく》の情報を与《あた》える代わりに、利益をより多く手に入れることができる。  目的と思惑《おもわく》が綺麗《きれい》に説明されていて、なにも問題はないと思った。 「左様ですか」 「問題が?」  つい、語気強く聞き返してしまった。 「問題があるかと問われれば……」 「あるなら言え」  言って、さすがに居丈高《いたけだか》に過ぎたと目をそらした。 「悪かった。問題があると思うのなら、教えてもらえないか」  オーラーはため息をつき、髭《ひげ》についたビールの泡《あわ》を指でとってから、口を開いた。 「その御仁《ごじん》、本当に信用できるのですかな」  怒《おこ》り出さなかったのは、フルールの心が広くなったからではない。  オーラーがそうまで言うからには、なにかしら引っ掛《か》かるものがあるのだ。  ちょっとした情報から思いもよらない事実を見つけ出すのが、一流の商人だとオーラーは言っていた。 「……怪《あや》しいところがあるのか」 「怪しいところ、というほどではございませんが、妙《みょう》なところは」 「どこだ?」  尋《たず》ねると、オーラーは手元を見つめるようにうつむいて、やがて片目だけ開けてこちらを見る。  思っていることを伝えようかどうかと迷っている時の顔だ。  じっとこちらを見つめたまま、硝子《ガラス》でできたような灰色の目の奥で何事かを考えている。  ため息は、自分の中で結論が出た合図。 「お嬢様《じょうさま》、よろしいですか」 「なんだ」 「商売というものは、この深皿のようなものでごさいます」  まだ半分くらい中身の残っている、ベルトラ特製のスープが入った深皿を指差した。 「中身は商《あきな》いの儲《もう》けでございます。ベルトラのように腕《うで》の立つ者ならば、同じ商いでもうまいものを詰《つ》め込めます。ですが、どれだけ頑張《がんば》ってもたくさん盛ればあふれてしまいますように、どんな商いにも儲けには限度がある。ということは、ですな」  喋《しやべ》るオーラーの向かい側《がわ》で、ベルトラがパンをちぎって食べ始めた。  家に関係すること以外で彼女の興味を引くのはとても難しい。 「基本的に、その商《あきな》いに携《たずさ》わる者たちの間では必ず利益の分配が行われるということです」 「それはわかる。だからこそ、商会にたくさん取られるのが嫌《いや》で、ミルトンは私のような者を探していると言っていた」  オーラーはうなずき、しかし、即座《そくざ》にこう言った。 「だとすると、ポースト家の方が普段《ふだん》商いをしている商会は、利益を大きく減じることになります。それを甘んじて見ていますかな? 商会は、どこも狡猾《こうかつ》で、陰険《いんけん》です」 「え?」  フルールは聞き返して、すぐに「ああ」と笑顔《えがお》になった。 「それは心配ない。逆なんだ」  今度は、オーラーが聞き返す番だった。 「逆?」 「そう。ミルトンを紹介《しょうかい》してくれたジョンズ商会は、自分たちの利益を増やすためにそうしたんだ。というのも、今ミルトンは別の商会から仕入れた服を販売《はんばい》していて、紹介してくれたジョンズ商会はミルトンの販売技術を欲しがっている。ミルトンは、鞍替《くらが》えする代わりに一つ条件を出したんだ。それが、出資者を見つけてくること」  オーラーの片時も揺《ゆ》らがない目が、ゆっくりと瞼《まぶた》の裏に隠《かく》れた。  数瞬《すうしゅん》後に開かれると、その目はフルールからそらされていた。 「仕入れはジョンズ商会で行う、というわけですな」 「そう。ミルトンが服をジョンズ商会から仕入れるから、商会としては服の売り上げが伸《の》びる。しかも、ミルトンと懇意《こんい》になれる。商会にとって悪い話は一つもない。もちろん」  言葉を切ったのは、オーラー相手にこんなに滔々《とうとう》と話せている自分が誇《ほこ》らしかったから。  芝居《しばい》がかった間の取り方に、オーラーが少し笑ったような気がした。 「私にとっても、ミルトンにとっても、良い話しかない」  完璧《かんぺき》だと思った。  これまでミルトンをいいように使い、暴利をむさぼってきた商会を切り、ミルトンに利益を渡《わた》す代わりに自分たちの利益も確保しようというジョンズ商会の目論見《もくろみ》。そこに参加して、金を出すという危険を冒《おか》す代わりに、その報酬《ほうしゅう》を受け取る自分。  しかも、儲《もう》け以外にも服についての知識を手に入れることまでできる。ミルトンはこれで儲けを積み重ねていって、きっと最後には自分の店を持とうというのだろう。  なんにせよ、誰《だれ》もが損をしない素晴《すば》らしい仕組みだと思った。 「ふむ……」  しかし、意に反してオーラーは返事をしなかった。  禿《は》げ上がった額の上まで皺《しわ》をゆっくりと寄せ、じっとスープを見たまま動かない。  しばらくはおとなしくオーラーの返事を待っていたものの、目を閉じ出すと長い。  フルールは沈黙《ちんもく》に耐《た》えられず、おずおずと手元のスープに口をつけた。だいぶ冷めてきていたが、その分味がよくわかった。「おいしいよ」と改めてベルトラに言うと、寡黙《かもく》に食事を続けていたベルトラはようやくにっこりと笑ってくれた。  オーラーが唐突《とうとつ》に口を開いたのは、口直しの湯をベルトラに頼《たの》んだ直後だ。 「まあ、お嬢様《じょうさま》がそのように判断されたのでしたら」  なにを考えていたのかはさっぱりわからないが、オーラーはもう一度「そのように判断されたのでしたら」と繰《く》り返した。  こんな言葉に、ではそうさせてもらう、と即座《そくざ》に断言できるほど、フルールも自信|過剰《かじょう》ではない。  スプーンを置いて、上目遣《うわめづか》いに聞いていた。 「なにかあるのなら、言って欲しいんだが……」 「いいえ。これは言ってどうなるものでもございませんし、私の思い過ごしかもしれません。なにせ、この歳《とし》でございますからな。過去にはこんなこともあった、あんなこともあった、とあれこれ心配になってしまうのでございます。それに」  オーラーはスープを一口飲んで、素晴《すば》らしい、とばかりに小首をかしげてベルトラに視線を向ける。少なくなった頭髪《とうはつ》を未《いま》だに卵の白身で撫《な》でつける伊達《だて》男のそれは、ベルトラの笑顔《えがお》を誘《さそ》うのに十分すぎるものだった。 「お嬢様はお嬢様なりにきちんと成長なさっている。おっかなびっくりでも前に進もうとされている方を手取り足取り導いていては、せっかくの足が萎《な》えてしまいます」  褒《ほ》められているのかどうかは曖昧《あいまい》なところだが、それでも頑張《がんば》って一人で歩いていけと言われているのだから格段の進歩だ。  ついこの間まで、そこいらへんの小僧《こぞう》のほうがよほど信頼《しんらい》されているくらいだったのだから。 「商人であるのなら、失敗から学んでこそ一人前でございますし」  フルールは、笑いながらこう言った。 「失敗は前提なんだな」 「そうは言っておりませんが」  オーラーは、言いながら軽く笑う。  そして、おもむろに手を伸《の》ばしたジヨッキにビールが入っていないことに気がつくのと、ベルトラが立ち上がって新しいのを注《つ》こうとするのが同時だった。 「無学|文盲《もんもう》ですから難しいお話はわからなくとも、私めの仕事はこれにございますので」  ベルトラのすまし顔。  頼《たよ》れる家人に囲まれていて、心強い限りだった。  翌日、朝早くに目が覚めてしまった。  とはいっても、貴族の感覚でいう早朝と、平民のいう早朝との間にはずれがあることを知っている。身近な例でいえば、フルールが朝早くにベルトラに起こされる時、ベルトラはとっくのとうに身支度《みじたく》を整えて一通りの家事を終えたあとだ。  オーラーにおいては言わずもがなだが、今日に限ってははっきりと早朝に起きた、といえる時間だった。  フルールはベッドから下りて、ベルトラが家事の合間に作ってくれた手製の櫛《くし》で軽く髪《かみ》を梳《す》く。肩《かた》の手前で思い切りよく切られた髪の毛にはなんの引っ掛《か》かりもなく、手入れは一瞬《いっしゅん》で終わった。貴族特有の長い髪の毛を切った次の日の朝など、朝の身支度が劇的に短くなったことについ口笛を吹《ふ》いてしまったくらいだ。  長い髪の毛は、小さな井戸をたくさんの家で共有しなければならない町中ではろくに洗うこともできない。その上、やることがあふれている毎日の生活の中で髪の毛を梳く時間はそれ以上に少ない。  しかも、商《あきな》いをするうえで女とばれるのはあまり得策ではない。  そういうわけで、ばっさりと切った。  ただ、不思議だったのは、髪の毛を切る時に動揺《どうよう》していたのが自分以外の周りだったこと。  髪の毛を切るように、とフルールに伝えるオーラーが苦渋《くじゅう》の顔つきなら、ベルトラは必死になってそれを止めようとした。  髪を解《ほど》き、外套《がいとう》のように大きな布を体に巻いて待っていたフルールは、二人の争いに決着がつきそうにないと見るや、自分で髪を切ってしまっていた。  あの時のベルトラの悲鳴は今でも覚えているし、オーラーが目を点にした姿などは、あとにも先にもあれだけだった。  磨《みが》いた銅板に映った自分の髪型は、嫌《きら》いではない。  多分、自分に向かって微笑《ほほえ》んだのも、髪を切ってからが初めてだろう。  そこにいるのは、ただその場所にいるだけの貴族様ではない。  これから自分の手と足で生きていく、フルール・ボランという一人の商人だったのだから。 「よし」  朝は井戸《いど》が順番待ちになるため、昨晩のうちに汲《く》んでおいた水で顔を洗い、口をすすぎ、残りを中庭の草木めがけて捨ててから、フルールは一つ気合を入れた。  程《ほど》なくして階段を上る音が聞こえたのは、捨てられた水の音に気がついて、ベルトラが階下から上がってきたのだろう。 「お嬢様《じょうさま》?」  控《ひか》えめなノックのあと、訝《いぶか》しげな声が聞こえてくる。  無理もない。  普段《ふだん》は肩《かた》を揺《ゆ》すられたってなかなか起きないのだ。  フルールは、扉《とびら》を開けてから笑顔《えがお》で言った。 「おはよう」 「お、おはようございます……」 「オーラーは?」 「え、あ……はい、市場のほうにいつものお散歩に……」  早起きをして、お目付け役のオーラーがいない。  ならば、フルールが言うことは決まっている。 「じゃあ、朝食を用意してくれ。パンに、ひとかけらのチーズ。それと少しのぶどう酒を」  朝食は貴族か金持ちの特権であり、贅沢《ぜいたく》の証《あかし》。  屋敷《やしき》を追い出されてなにが辛《つら》かったかといえば、真っ先に禁止された朝食だ。  ベルトラは「まあ」とばかりに目を見開いたが、少し考えるようにうつむいてから、ゆっくりと辺りを見回して、小さく微笑《ほほえ》みうなずいた。 「手早くすませてくださいませ」  きちんと朝早くに起きたことのご褒美《ほうび》だろう。  フルールが礼の代わりに頬《ほお》を重ねると、ベルトラはくすくす笑って踵《きびす》を返す。  窓の外から鶏《ニワトリ》の鳴き声が聞こえてくる、すがすがしい朝のことだった。  オーラーに内緒《ないしょ》の朝食を手早く片づけると、フルールは外套《がいとう》を身にまとい、頭巾《ずきん》をきっちり被《かぶ》って準備をした。 「まあ、こんな早くにお出かけですか?」  前掛《まえか》けで手を拭《ふ》きながら、ベルトラが驚《おどろ》いたように聞いてきた。 「港のほうに行ってくる。オーラーにはそう言っておいて」 「畏《かしこ》まりました……」  と、ベルトラは少し歯切れ悪く言い淀《よど》む。  フルールが首をかしげ、無言で尋《たず》ね返すと、慌《あわ》ててベルトラは言葉を紡《つむ》ぐ。 「いつの間にやら、お嬢様《じょうさま》のその格好も板についたものだと驚《おどろ》いてしまいました」  正直な感想だが、そう言われて嬉《うれ》しくないわけでもない。  軽く外套を翻《ひるがえ》して、「行ってくる」と気障《きざ》に言ってみる。 「いってらっしゃいまし」  呆《あき》れたように笑うところが、ベルトラらしかった。  家から出ると、早朝の空気が心地《ここち》よい。  寒く乾燥《かんそう》した冬が終わると、日一日と暖かくなり、空気は森の中のような香《かお》りをまとっていく。眩《まぶ》しい朝日に照らされた建物や木々の影《かげ》も、心なしか濃《こ》くなっている気がする。  春が来て、花が咲き乱れると次にやってくるのは目に鮮《あざ》やかな緑の季節。  つながれた数頭の山羊《ヤギ》を連れた商人を避《さ》け、フルールは軽い足取りで歩いていく。  目指す場所は港の荷揚《にあ》げ場であり、人に会うためだった。  複数の街道《かいどう》が終結する、貿易の拠点《きょてん》であるこの港町には毎日たくさんの船がやってくる。  そして、荷物がやってくるということは、それをさっさと運び出さないといけないということだ。素早《すばや》く、たくさん、可能な限りの回数を。  彼らの多くは夜が開ける前、教会の中の聖職者たちが朝課の鐘《かね》をやや控《ひか》えめに鳴らす頃《ころ》、すでにこの港で働いている。町の規則で市場や職人の店の営業時間は厳しく決まっていたが、港だけは例外だ。穴が開いて今にも沈《しず》みそうな船が港にやってきて、規則だからと追い返すわけにもいかないからだ、というのが貿易に携《たずさ》わる者たちの言い分だが、多分、本音半分、言い訳半分だろう。  市場に荷を運んでくる騾馬《らば》が今にも倒《たお》れそうでも、市場は決して開かないのだから。 「よし! これで全部だ! 神のご加護を!」  上半身|裸《はだか》になった荷揚げ人足の大きな声が、荷馬車の荷台を叩《たた》く音と共にこだまする。  しかし、港の喧騒《けんそう》はそんな声すらかき消されそうなほどにすごい。  日が昇《のぼ》ってくればどんな老いぼれ商人だって荷を運ぶことができる。  港から旅立つ者の数は今が最も多いらしい。  次に、また次にとあちこちの商会の荷揚げ場から荷物を満載《まんさい》にした荷馬車や荷馬や人が発《た》っていく。  その間をちょろちょろとしているのは、船と商会との連絡《れんらく》に走らされている小僧《こぞう》であったり、積み忘れた荷がないかあわただしく数える商会の人間であったり、塩|漬《づ》け鰊《ニシン》がぎゅうぎゅうに詰《つ》め込まれた樽《たる》からこばれた塩を拾い集める物乞《ものご》いだったりと様々だ。  人と言葉がごった返すこの港。  荷を積んでいる最中は、一刻も早くこんな騒々《そうぞう》しさから抜《ぬ》け出したいと思うのに、いざ荷馬車を駆《か》って町から出ると、途端《とたん》に恋しくなるこの喧騒。  慣れるまでにだいぶかかった。  今では、オーラーほどではないにしても、多少は落ち着いてこの喧騒の中を泳いでいくことができた。 「これで最後ですか!? え? 二十枚!? 大丈夫《だいじょうぶ》! あるはずです!」  足の太い馬に荷物をくくりつけ、馬|越《ご》しに大声を上げている青年はすぐに見つかった。  上半身が裸《はだか》であったり、肩《かた》まくりをして足かと見まがうばかりの腕《うで》を剥《む》き出しにしていたりする者たちがあふれる中、その出《い》で立《た》ちはやはりちょっと目立つ。戦場に詩人が立っていたとしたら、こんなふうに映るのだろう。 「じゃあ、先に出ますよ! ええ、合流は例の丘《おか》で! では、神のご加護を!」  きっと、そんなに大きな声を上げなくても相手には伝わるのだろうが、この雰囲気《ふんいき》に飲まれて青年の声は精一杯《せいいっぱい》の怒鳴《どな》り声だった。  フルールは少しそれを面白《おもしろ》く感じながら、馬の手綱《たづな》を握《にぎ》った青年に歩み寄る。  向こうがこちらに気がついたのは、最後の荷物の点検を終えて、馬を連れて歩き出そうとした、その瞬間《しゅんかん》だった。 「あ」 「おはよう」  ごきげんようと言おうか迷いつつも、口をついて出たのはそんな気軽な挨拶《あいさつ》だった。  ミルトンは荷物に目をやって、それから改めてフルールのことを見て、笑顔《えがお》で挨拶を返してきた。 「おはようございます」 「間に合ってよかった」 「はは。まさか、本当に今日来ていただけるとは思いませんでした」  ミルトンが笑うと、まだ寒い早朝の空気の中、口元から白い息が小さく上がる。  そして、馬の背の向こうを見ると、大きく手を振《ふ》ってから馬を引き始めた。 「歩きながらでも?」 「もちろん」  フルールはミルトンの隣《となり》に並んで歩き始めた。  貴族、と呼ばれる人間にもいくつか種類があって、町に住む者や森に住む者、丘の上の見晴らしのよい場所や、時にはなにもない平原に建てられた修道院に間借りしている者だっている。  ミルトンがこれから商売に赴《おもむ》くのは、近隣《きんりん》の森と河川を支配する名家と聞いていた。  フルールであれば前日の晩は一睡《いっすい》もできなくなりそうではあったが、この若い零細《れいさい》貴族の顔つきはしゃきっとしている。  人ごみが切れるまでの間に、一度だってだらしない欠伸《あくび》など見せなかった。  顔に巻いた頭巾《ずきん》の下で、フルールは何度か気づかれないように深呼吸をする。  こちらも一人の商人として、落ち着きを見せなければならない。 「それで、昨日の話のことなんだが」  フルールがそう口を開いたのは、港から続く大通りが、商会や商館が軒《のき》を連ねる辺りから、宿や酒場に変わる頃《ころ》になってから。  ただ、そのあとの言葉が続かなかったのは、別に誰《だれ》かとぶつかったからというわけではない。  馬を引いていたミルトンが、小さく笑ったのだ。 「……な、なにかおかしかったか?」  顔に頭巾《ずきん》を巻いていなかったら、もっと間抜《まぬ》けなところを晒《さら》していたかもしれない。  あるいは、ミルトンがもっと意地悪かったのなら。 「あっと、すみません」  ミルトンは自分の口元を押さえて、そう言った。  フルールが怒《おこ》るに怒れなかったのは、そう言ったミルトンのその顔が、実に楽しそうなものだったから。  人の良さそうな笑顔《えがお》。  早朝の爽《さわ》やかな空気の中、そんな笑顔を前に怒ることなどできはしない。 「ちょっと、不思議な感じだったんです」 「不思議、な?」  フルールが訝《いぶか》しげに聞き返すと、ミルトンは申し訳なさそうな笑顔を向けてくる。  その笑顔に、つと視線をそらしたのも怒ったからではない。  ミルトンは商《あきな》いの相手。  そう自分に言い聞かせるためだった。 「ええ。だってそうでしょう? 多分、一年か二年前。あるいはもう少し前だったら、貴女《あなた》が私の隣《となり》に立って『それで、昨日の話のことなんだが』などと言ったら……もう、多分胸中は荒《あら》波《なみ》のごとく、でしょうからね」  ぽく、ぽく、と馬の蹄《ひづめ》の音が響《ひび》く。  目を閉じ、いつまでも聞いていたくなる単調な蹄の音で心を落ち着ける。  確かにミルトンの言うとおり。  年月《としつき》というものは、自分たちをいとも簡単に変えてしまう。 「もっとも、今も私の胸中は穏《おだ》やかではありませんが」  ミルトンは言って、笑う。  からかわれたのだとようやく気がついた時、フルールの顔も、頭巾では隠《かく》しきれないくらいに笑っていた。 「茶化してすみませんでした。それで、私の提案した儲《もう》け話《ばなし》はいかがでしたでしょうか」  町は中心部から外れに至り、辺りには旅装の者や近隣《きんりん》の村からやってきたと思《おぼ》しき者たちが目につき始めた。  道の両|側《がわ》は職人の工房《こうぼう》が立ち並び、見習い小僧《こぞう》たちがせっせと仕事の準備を始めている。すでに騒がしく働いているのはパン職人の店で、罪深くも焼き立てのパンの香《かお》りを辺りに撒《ま》き散らしていた。 「受ける」  フルールは、短く言った。  二人|揃《そろ》ってパン屋のほうに目を奪《うば》われていた、その隙《すき》を狙《ねら》って言った。  パン屋から視線を戻《もど》し、隣《となり》のミルトンを見る。  ミルトンは、職人が丁寧《ていねい》にこねて丸めたような目をして、こちらを見つめていた。 「本当、ですか?」 「嘘《うそ》はつかない」  攻守《こうしゅ》の逆転。  自分がいっぱしの商人になったような気がして、頭巾《ずきん》の下でゆっくりと大きく息を吸う。  ただ、それも驚《おどろ》きの表情から嬉《うれ》しさに満ちあふれたものに変わっていくミルトンを見ていたら、なにかちっぽけで卑《いや》しいものに思えてきてしまった。  目を輝《かがや》かせる、という言葉の意味が、今この瞬間《しゅんかん》にわかったのだから。 「ありがとう、ございます」  途中《とちゅう》に深呼吸を挟《はさ》んだ、ゆっくりとしたものだった。 「あ……ああ」  頭巾の中でくぐもった声は、自分で聞いていても間抜《まぬ》けなそれ。  フルールは咳払《せぎばら》いを挟んで、オーラーの言葉を思い出す。  入れ込んではならない。  いつだって、オーラーの忠告は正しいのだ。 「昨晩考えた結果、話を受けさせてもらうことにした」 「そうですか……いや、本当にありがとうございます」 「……」  少年のようにまっすぐな笑顔《えがお》を向けられて、フルールは動揺《どうよう》を隠《かく》すのが精一杯《せいいっぱい》だ。  冷静に振《ふ》る舞《ま》うふりをして、前を向いている間に気分を落ち着ける。 「ただ、服の仕入れから販売《はんばい》について、本当に不安はないんだな?」 「ええ。フルールさんを紹介《しょうかい》してくださった商会が、私と手を組みたがっていることは確かですから」  オーラーの険しい顔を思い出しながら、フルールは言葉を紡《つむ》ぐ。 「それは信用できるのか? 今の商会の邪魔《じゃま》をするためにそう振る舞っているだけかもしれない、という可能性は?」 「ええ、もちろん、なくはないでしょうね。ですが、こうも考えられます。服のような軽い品物は船にたくさん積もうと思えばいくらでも積めます。そして、たくさん積めば積むほど輸送にかかる費用は安くなっていく。ただし、仕入れても売れなければ話になりません。逆に、売る当てがあるのなら、たくさん仕入れれば仕入れるほど利幅《りはば》は大きくなり、売れる数が多いのだからさらに儲《もう》けは大きくなる。ジョンズ商会は、どうしてもこの港で一番の商会になりたがっているんです。貴女《あなた》も、ひどい値切り方をされませんでしたか?」  ミルトンの顔が苦笑いなのは、説得するために当の商会の悪口を使ったからだろう。  しかし、フルールはそれで変に納得《なっとく》してしまう。  自分たちの儲《もう》けのためならば、なんでもやりそうな雰囲気《ふんいき》は確かにある。  ミルトンは、続けて言った。 「どいつもこいつも腹に一物《いちもつ》あるようで、疑心暗鬼《ぎしんあんき》になってしまう気持ちはわかりますよ」  世間知らずのお嬢様《じょうさま》を地でいっていたフルールは、その言葉にぐっと顎《あご》を引く。 「皆《みな》が皆一自分の利益を優先させて動くんですからね。もちろん、私だってそうです」 「それなら」  フルールは言いかけて、口をつぐむ。  それならばどうしてお前だけ信用できるというのか。  そんな言葉をとっさに口にしてしまったら、まるでなんでもいいから反論の機会を窺《うかが》っていた子供のようではないか。  すんでのところで自制心が働いて、無様を晒《さら》すことだけは避《さ》けられた。  それでも、フルールは自分の気持ちを隠《かく》しきれているかどうかわからない。  子供のような言葉が喉《のど》まで出かかったのは、胸の中に別の気持ちが渦《うず》巻いているからだ。  頭巾《ずきん》の隙間《すきま》から、ミルトンを見る。  若く、地に足をつけ、埃《ほこり》にまみれた貴族は、やんわりとした表情のまま、小さく口を開いた。 「なにかの冗談《じょうだん》のようですが、私はこう言うしかありません」  町の終わりで、ミルトンは立ち止まった。 「私の話だけは信じてください」  視界がかげったのは、自分が笑ったからだ、と気がついたのは一瞬《いっしゅん》あとのことだった。  町の終わりの検問所では、周辺の村から農作物を運んできた村人や、日が昇《のぼ》ってきて最後の旅程を進んできた旅人たちが税を支|払《はら》ったり押し問答をしたりしている。  牛、馬、かごの中に入れられた鶏《ニワトリ》も行き来して、騒《さわ》がしいことこの上ない。  しかし、フルールはそんな喧騒《けんそう》など少しも耳に入っていなかった。 「……へたな口説き文句だ」 「ええ。なにせ貴女《あなた》に顔を覚えてもらえていなかったくらいですから」  頭巾の下で、フルールははっきりと笑って息を吸う。  屋敷《やしき》を追い出されるのも、悪いことばかりではない。 「押して、引いて、また押して……」 「蝶《チョウ》か、猫《ネコ》か、兎《ウサギ》か狐《キツネ》か」  色恋ばかりに現《うつつ》を抜《ぬ》かす若い貴族たちが、自嘲《じちよう》気味に口ずさむ短い詩。  きっと、この町でこんな詩に首をすくめて笑える相手は他《ほか》にいない。  フルールとミルトンの二人はひとしきりくすくすと笑い合い、やがてその笑いは波が引くように消えていった。  フルールは、そこに静かな言葉を滑《すべ》らせる。 「信じよう」  短い言葉だが、商人たちの使う長ったらしい契約《けいやく》の文句よりもよほど重要なものだ。  ミルトンも重々しくうなずいて、馬の手綱《たづな》を手放した。 「よろしくお願いします」  その手を握《にぎ》り、「こちらこそ」と返事をする。  そして、ミルトンはすぐに手綱を握りなおすと、馬を見てからもう一度こちらを見た。 「できればここにとどまりたいのですけど」  真面目《まじめ》な顔だが、真面目くさった、という表現がしっくりくる。 「意外に達者なお言葉」 「相手が落ちるかどうかは、別れ際《ぎわ》にかかっているのです」 「思わせぶりな態度を取って、一晩中自分のことしか考えられないように、と?」  自分でも驚《おどろ》くくらいに言葉がすらすらと出る。  錆《さ》びついて、すっかり心の奥底で埃《ほこり》を被《かぶ》っていた貴族の仮面は、久しぶりに被るととても心地《ここち》のよいものだった。 「手の内を明かしてしまうようでは、私も商人としてまだまだのようです」 「そう? 私は次にあなたにいつ会えるのかを聞いていないけれど」  騎士《きし》の再訪を一日千秋《いちじつせんしゅう》の思いで待つ貴族の娘《むすめ》。  そんな演技も、悪くはない。 「三日後の夜に」 「お待ちしています」  体が勝手に動きそうになったのは、きっと貴族の血に違《ちが》いない。  それでも少し上がってしまった顎《あご》を、誤魔化《ごまか》すように下げ、軽く目をそらす。  ミルトンは、気がつかないふりをしてくれて、「それでは」と言って歩き出した。  ぽく、ぽく、と馬の蹄《ひづめ》の音が遠ざかっていく。  三日後の夜。  ミルトンの後ろ姿を見つめながら胸中でそう呟《つぶや》いたあと、フルールはそれで初めて自分の胸の辺りを手で押さえていることに気がついた。  慌《あわ》てて手を離《はな》し、握《にぎ》り締《し》めていた服の皺《しわ》を必死に伸《の》ばして消そうとした。  ミルトンは検問の兵に挨拶《あいさつ》をして、無事に通過した。  一度だけ、こちらを振《ふ》り返る。  フルールは、もうミルトンのことなど気にしていないかのように、身を翻《ひるがえ》して歩き始めた。  これ以上、見ていられなかった。  三日後の夜。  フルールは、動き始めた町の喧騒《けんそう》の中で、宝物の名前を呼ぶように、そう胸中で呟《っぶや》いたのだった。  うららかな春の日差し。  建物が密集して建っていて、隣《となり》の家と家の隙間《すきま》に紙すらも挟《はさ》まらないようなことが珍《めずら》しくはない町の中。  昔の屋敷《やしき》では当たり前だった日差しは、ちょっとした贅沢《ぜいたく》品ともいえる。  空からいくらでも降ってくる光でさえ贅沢品になるのだから、下界の暮らしは大変だ。  フルールはそんなことをぼんやりと思いながら、窓|枠《わく》に頬杖《ほおづえ》をつき、昼食の残りのパンくずに集まってきた小鳥を眺《なが》めていた。 「お嬢様《じょうさま》」  そんな折に、そんな風情《ふぜい》のない言葉。  しかし、フルールは窓の外を眺めたまま怒《おこ》ることもない。  なぜなら、怒るべきはオーラーのほうだと自分でもわかっているからだ。 「お嬢様!」  大きな声に、小鳥がぱっと飛び立った。  そこに至ってようやくフルールは顔を上げ、のんびりと声のほうを振《ふ》り向いた。 「騒《さわ》がしいな……」 「騒がしくして言うことを聞いていただけるならば、もっと騒がしくして差し上げますが」 「わかったわかった……ただ、あまりにも天気が良くてね……」  最後に大きな欠伸《あくび》をつけて、フルールは大きく椅子《いす》の上で伸《の》びをした。  机の上には数枚の紙と羽根ペンにインク。  そのうちの一枚には、流暢《りゅうちょう》な筆致《ひっち》で文字が綴《つづ》られている。  オーラーが記した、商人たちが契約《けいやく》の際に使う決まり文句の一覧だ。  買《か》い付《つ》け、売却《ばいきゃく》、貸し付け、借り受け、その他|諸々《もろもろ》の言葉の使い方や、神への祈《いの》り方まである。  時には異国の者たちと取引をしなければならない商人は、独自の言葉|遣《づか》いでやり取りをするという。多少の金額はともかく、大きな金額の取引となれば契約の一字一句を読み違《ちが》えることはそのまま破滅《はめつ》へと直結している。  あわよくば相手を騙《だま》そうと虎視《こし》眈々《たんたん》と狙《ねら》い続ける者たちを前に、最低限の戦い方を学んでおかなければならない。  フルールはオーラーの大仰《おおぎょう》な物言いを思い出し、紙をもう一枚めくってみる。  そこにはずらりと並んだ貨幣《かへい》の名前。その横にあるのは別の貨幣との交換《こうかん》比率であり、なにかの呪文《じゅもん》のように複雑な交換《こうかん》関係が成り立っていた。  一人前の商人ならば、一通りは把握《はあく》しておかなければならないこと。  そんなこと、言われなくてもわかっている。 「お嬢様《じょうさま》」  抑揚《よくよう》のない声は、本当に怒《おこ》っている時のものだ。  フルールはオーラーのほうを振《ふ》り向いて、それから、眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せた。 「怒らないでくれ。自分でも、嫌《いや》になるくらいなんだから……」  それが天気の良さに浮かれている、ということではないことくらい、察しの良いオーラーならばすぐに気がついてくれる。  額を通り越《こ》して頭の天辺《てっぺん》まで皺を寄せ、片目だけ大きく開けているのは、次に出す言葉を自分の中で吟味《ぎんみ》しているのだろう。  オーラーはとても賢《かしこ》く、義理|堅《がた》い。  こんな腑抜《ふぬ》けにも、見捨てることなく折り目正しく接してくれるのだから。 「お嬢様、私は帳簿《ちょうぼ》係兼教育係として、言わねばならないことがございます」 「ん」  フルールが短く返事をすると、オーラーの小さな深呼吸のあとに、こんな言葉が聞こえてきた。 「物事を見誤りませんように」  嫌になるくらい含蓄《がんちく》のある言葉。  言葉《ことば》尻《じり》を捕らえられないように、どうとでも取れる言い方をするのは商人の性《さが》とはいうが、それは裏を返せばどんなふうにも解釈《かいしゃく》可能な言葉を放つことができる、ということでもある。  その言葉を聞いて、笑う代わりに顔が曇《くも》るのは思い当たる節があるからだ。  オーラーは、つるりと頭を撫《な》でて、言葉を続けた。 「このようなことは特に言いたくありませんが、ポースト家は元々現当主が先代の未亡人を射止めてから隆盛《りゅうせい》したお家柄《いえがら》でございます。領地の問題や数々の政策はあちらこちらの邸宅《ていたく》の閨《ねや》で決まるともっぱらの噂《うわさ》でございます。つまりでございますな」 「つまり、その血を引くミルトンもまた、希代《きたい》の女ったらしだと」  机の前の壁《かべ》を見つめたまま、フルールは言葉を引き継《つ》いだ。  窓の外からは先ほどの小鳥のものか、ちちち、と小さく鳴き声が聞こえてくる。  一際甲高《ひときわかんだか》い声は、どこかの路地を走り回る子供たちのものだろう。  むう、という唸《うな》り声は、我が家の賢人《けんじん》のものだった。 「なにせ高慢《こうまん》な貴族の方々を相手に商《あきな》いをするミルトンだ。多分、そうなんだろう。私など、それこそ小娘《こむすめ》だろうからね」 「……そこまでは、申しませんが……」 「いいよ、自分でもわかっている。わかっているんだ。地に足がついていない。その窓|粋《わく》からひょいと足を踏《ふ》み出したら、そのまま空を飛べそうなくらいだ」  眩《まぶ》しいくらいに日の光を浴びている中庭を見ながら、フルールは目を細めて言った。  オーラーはむぐむぐとなにかを言おうとして、結局言葉を飲み込んだらしい。  オーラーの元|主《あるじ》はフルールの元夫。  しかも、その娶《めと》り方をつぶさに目の前で見てきたのだ。  フルール本人よりもよほどオーラーのほうが気に病《や》んでいることを知っている。  ボラン家がついに倒《たお》れた時、路頭に迷いそうだったフルールに手を差し伸《の》べてくれたのも、きっと罪|滅《ほろ》ぼしの意味もあるのだろう。  だからこそ、哀《あわ》れな身の上の没落《ぼつらく》貴族の娘《むすめ》の、恋とも呼べぬような気の迷いでも、切って捨てるのはあまりにもむごい。  そんなところかもしれない。  幾分《いくぶん》うがった見方ではあるが、きっとそれほど外れてはいない。  そして、おそらくその通りなのだ。  フルールは、視線を部屋の中に戻《もど》して、自嘲《じちょう》気味に笑った。 「でも、商《あきな》いは商いだ。損得を前にしたら人間どうとでも変わる。そうだろう?」  オーラーの教えてくれたことの一つ。  歴戦の商人は気まずそうに、それでもしっかりとうなずいた。 「まあ、口で言っているだけじゃ信用されないな。それこそ」 「商人のように、でございますか」  上手につなげてくれたので、オーラーに自然な笑顔《えがお》を見せることができた。  厳しくも心|優《やさ》しい老商人は、それでほっと安堵《あんど》の表情になってくれる。  ならば、自分がすべきことは他《ほか》にない。  フルールは小さく咳払《せきばら》いをして、背筋を伸《の》ばす。  机の上には、覚えるべきことがあふれ返っている。 「やる。やるよ。だから、信用して席を外してくれないか」  オーラーはその言葉に、しばし考えるような間をあけてから、おもむろに仰《ぎょうぎょう》々しく挨拶《あいさつ》をして部屋をあとにした。  静かに閉じられた扉《とびら》のほうを向いたまま、フルールはつい微笑《ほほえ》んでしまう。  いい人ばかり。  ならば期待に応《こた》えなければならないし、彼らをずっと守っていけたらいいと思う。  フルールは鼻を軽く掻《か》いて、自分の野心に肩《かた》をすくめた。  それから羽根ペンを手に取って、今度は真面目《まじめ》に机に向かったのだった。  別れ際《ぎわ》、男が三日後にまた来ると言ってそれを信用するのは、きっと吟遊《ぎんゆう》詩人の語る物語の中だけだ。  それに、こと商《あきな》いにおいては予定通りに進まないものだと身を以《もっ》て知っている。  四日目の夕方|頃《ごろ》、ミルトンから商談が長引いてしばらく帰れない旨《むね》の連絡《れんらく》があっても、特に落胆《らくたん》はしなかった。どちらかといえばオーラーのほうが気を揉《も》んでいるくらいだった。  加えて、フルールもミルトンが帰ってくるまで優雅《ゆうが》に自室で日向《ひなた》ぼっこばかりをしているわけにもいかないので、それなりに忙《いそが》しい日々を送っていた。  ミルトンを紹介《しょうかい》してくれたジョンズ商会が、干草《ほしくさ》の仕入れについて相談したいと持ちかけてきたこともあって、一週間ほど港沿いの商会に通い詰《つ》めていたのだ。  朝と夜にはオーラーから即席《そくせき》で衣服についての講義を受けて、羊毛から糸を紡《つむ》いで毛織物にする過程や、麻《あさ》布を織る過程までみっちりと仕込まれた。  ただ、原料の羊毛にしろ染料にしろ、まだ見ぬ異国の土地や聞いたこともない場所のものが良いだの悪いだの言われても、その場では覚えられても二日|経《た》つともはや怪《あや》しかった。  なにせ、例えば羊毛についていえば、原種の羊の産地と育てられる土地がすでに異なり、刈《か》り取られたあとにどこで染色され、どこの町のどの職人組合で織られ、縮絨《しゅくじゅう》されるかといったことまで覚えるのだ。もはやそのあとにどの商品がどの町で売れやすいかまで覚えられるわけがない。  オーラーの手前言葉だけは覚えはしても、身についているとは自分自身思えなかった。  だから、商会に通い詰める間、多少親しくなった相手にそのことをつい愚痴《ぐち》ってしまっていた。自分でも意外だったのは、その相手がフルールに支|払《はら》う料金を値切ろうとした、あの信用ならない男だったこと。  それと、ハンスと名乗ったその男が笑いながら同意してくれたことだ。 「私もそうでしたよ」  あまりにも意外で、フルールはつい聞き返していた。 「本当に?」 「もちろん。覚えることがあまりにも多くて、こんなに色々頭に詰め込んでは自分の名前を忘れてしまうのではないかと本気で思っていたくらいです」  体を鰊《ニシン》臭《くさ》くして荷を運び、帰りには汗《あせ》と垢《ほこり》と泥《どろ》にまみれて干草を運んできて、だというのに当初の約束を破ってまで値切ろうとしたハンス。  彫像《ちょうぞう》に血が通っていると気がついた時の驚《おどろ》きは、きっとこんなものなのだろうとフルールは思った。 「もっとも、貴女《あなた》様がその良き教師から小言を言われる代わりに、私たち見習い小僧《こぞう》は獣《けもの》の腱《けん》で作った鞭《むち》でひっぱたかれ、パン屋から払《はら》い下げられたパンをこねるための木の棒で殴《なぐ》られましたけどね」 「オーラー……ああ、その良き教師なんだが、彼も同じことを言っていた。てっきり、作り話だと」  笑うフルールに、ハンスはおもむろに袖《そで》をまくって腕《うで》を見せてくれた。 「これが、鞭《むち》で叩《たた》かれた痕《あと》です。綴《つづ》りの勉強をしている時ですね。石盤《せきばん》に貝で文字を書き、肘《ひじ》まで真っ白になったところを、粉が全部吹《ふ》き飛ぶくらい叩かれるんです。ちなみにこちらは」  と、まくった左腕は、一部分だけ不自然に毛の生えていない場所があった。 「夜に眠《ねむ》いのを我慢《がまん》するために蝋燭《ろうそく》の火で炙《あぶ》った痕です」  そんなことを、楽しい思い出を話すように平然と言うのだ。  ただ、すまし顔で、世の全《すべ》てを生まれた時から把握《はあく》しているといった振《ふ》る舞《ま》いをしている者たちも、最初は血と汗《あせ》にまみれた苦労の時代があったらしい。  だとすれば、自分のことを見下したり鼻であしらうような振る舞いをしていた理由も、なんとなくわかってきた。  そんな苦労をしてきた者の前で、まだどこか地に足のついていない自分のような者が一人前の口を利《き》こうとすれば、腹も立つし馬鹿《ばか》にしたくもなるだろう。 「中には生まれつき賢《かしこ》い子というのもいましてね、どうにか負けないようにと考えた末のことです。今では、ささやかな誇《ほこ》りです。努力をすれば必ず勝つことができる。その逆に……」  ハンスは流暢《りゅうちょう》に動いていた口を止め、「喋《しゃべ》りすぎですね」と自嘲《じちょう》気味に笑って言った。  聞き返すまでもない。  努力すれば必ず相手に勝てるのとは反対に、生まれつき賢い子供でも努力しなければ勝てないということだ。  その自信こそが、商人たちのあの、貴族などはもとより王ですら馬鹿にしている節のある、たくましさにつながるのだろう。  屋敷《やしき》にいた頃《ころ》から、フルールは彼らを見て思っていた。  彼らにはきっと怖《こわ》いものなどない。もしかすると、守りたいものすらないのかもしれないと。 「修道士顔負けだ」  フルールの言葉に、ハンスは少し考えるふうにしてから、まんざらでもなさそうな表情を垣間《かいま》見せた。  きっと、第一印象ほどに、この男は悪い奴《やつ》ではない。 「彼らと違《ちが》い、我々商人は我欲に満ちていますけどね」 「修道士だって、自分たちが救われたい、さもなければ誰《だれ》かを救いたい、という欲は捨てないと思う」  ハンスを瞠目《どうもく》させる時に、フルールの口から出てきたのはいつもオーラーの言葉だった。  ただ、今のその言葉は、在りし日のボラン家から寄進を受ける修道士たちを目《ま》の当《あ》たりにしていた自分の言葉。  ハンスは、じっとこちらを見て、品定めをするように顎《あご》を撫《な》でる。  ついこの前までは、失礼な、冷血漢のような振《ふ》る舞《ま》いだと思っていたそれ。  今のフルールには、それが商人特有のちょっとした愛矯《あいきょう》に思えていた。 「かもしれません。そして、だとすれば、そうでしょう。畏《おそ》れ多くはありますが……我々は修道士の方たちと同じかもしれません。老いも病もない国の代わりに……損も破産もない国を目指している、というところでしょうか」  楽しげに言ってから、「まさしく楽園だ」と独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。  彼らは実際見ていてすがすがしいほど一徹《いってつ》に、無慈悲《むじひ》に、容赦《ようしゃ》なく利益を追求して歩いていく。  辺り構わず怒鳴《どな》り散らし、常に相手を猜疑《さいぎ》の目で見て、忠実に従う者たちすら欺《あざむ》いてまで、追い求める。  全《すべ》ては儲《もう》けのために。利益のために。  そんな彼らに、王だの貴族だのといった称号《しょうごう》はなんの意味も持たないのだろう。  なにせ、良き商人であるには鞭《むち》で叩《たた》かれ自らの腕《うで》を火で炙《あぶ》るようなことをしなければならないのに、王や貴族であるためには、ただ運よくそこに生まれればいいだけなのだから。 「一つ、聞いてもいいかな」  顔つき合わせて、何日も話をしていれば今更《いまさら》顔を隠《かく》すこともない。  ただ、外す頃合《ころあい》も見つけられずずっとつけたままだった頭巾《ずきん》を外し、フルールはそう言った。  相手がその行為《こうい》を歩み寄りと受け取ったかどうかは定かではなかったが、「どうぞ」と言った時の言葉と表情は思いのほか柔《やわ》らかかった。 「そうまでして頑張《がんば》った理由は?」  フルールにも、多少の予測はついている。  現実的な理由はいくらだってあるし、それは森に囲まれた屋敷《やしき》の中ですら想像ができるほどありふれている。  それでも、フルールが尋《たず》ねていたのは、もう一つの答えを聞けるのではないかと思ったから。  自分が密《ひそ》かに胸に抱《いだ》いている、その予測を裏打ちしてくれるのではないかと思ったから。 「はは、そんなことを聞くんですか」 「おかしい、かな」  困ったような笑顔《えがお》を作るのは、口さがない貴族たちの晩餐《ばんさん》会で慣れている。 「いえ……その気持ちはわかりますよ。例えば、私は同じ質問を商会の主《あるじ》などにしてみたいくらいですから。ただ、私は今のところまだ有象無象《うぞうむぞう》のうちの一人ですからね。そうまでして頑張った理由は? などと聞かれると、ちょっと面映《おもはゆ》くなってしまいます」  まだ結果を出していないのに、ということだろう。  これが商会との取引で、それも信じられないほど厚顔《こうがん》無恥《むち》な契約《けいやく》の値切り方をされるというようなことがあったあとでなければ、フルールはきっとハンスの名前と顔をいつまでも覚えていたはずだ。  貪欲《どんよく》なくせに、ひどく謙虚《けんきょ》。  商人とは、おかしな生き物だ。 「私は食うにも困る貧農《ひんのう》の四男でしたからね。殺されずに生き残っただけでも幸運でした。村を出ていく当てもなく、かといって帰る場所もなく、招き入れられたこの商会にすがりつくほかありませんでした。とはいっても、確かに脱落《だつらく》した者たちもたくさんいました……」  ハンスは少し照れくさそうに話し、それを隠《かく》すために鼻を軽く擦《こす》ったりする仕草がまるで少年のようで可愛《かわい》らしかった。  人を馬鹿《ばか》にするか蔑《さげす》むかしかしたことのないような目が、つかの間の郷愁《きょうしゅう》を帯びて柔《やわ》らかくなる。 「それでも、なぜ我慢《がまん》できたかといえば……もちろん、色々な理由がありますし、どれが真の理由なのかはよくわかりません。私にはこれしか道がなかった、ということもありますしね。ただ……そうですね……」  厄介《やっかい》な問題を前にして困っているような、それでもどこか楽しそうに話すハンスは、遠くを見たまま黙《だま》ってしまう。  フルールは、その横顔を見てから視線を自分の手元に移す。  うつむいたその顔は、笑顔《えがお》だった。  なぜなら、ハンスのその横顔は見なれたものだったから。  そしてその無言の横顔こそが、フルールの思っていたことを裏打ちしてくれるなによりのものだった。  フルールは、あの成金《なりきん》の夫を好きにはなれなかったが、羨《うらや》ましいと思うところが一つだけあった。  それは、彼らには、誇《ほこ》りも信仰《しんこう》も、友情や親愛の情すら犠牲《ぎせい》にして進みたいと思う、その道の先にあるなにかが見えているというその事実。決してまともな人間ではないが、恐《おそ》ろしいほど優秀な彼らを駆《か》り立てるほどの、なにか。  フルールは、彼らの視線の先にあるものを一度でいいから見たかったし、なによりもじっとその方向を見て、恍惚《こうこつ》としている彼らを羨ましく思っていた。  だからこそ、フルールは自分があのひどい守銭奴《しゅせんど》の元夫を恨《うら》んではいないのだろう、と最近は思う。  破産が決定的になったあの時、彼は視線の先にあったそのなにかを永遠に見失ったのだから。  もしかしたら、家が完膚《かんぷ》なきまでに没落《ぼつらく》した時に大した動揺《どうよう》がなかったのも、自分の心は彼らの視線の先にあるなにかにとっくに捕《と》らわれていたからなのかもしれない。  どんな不幸も苦しみも受け入れるだけの価値があるという、その先にあるなにか。  幼い頃《ころ》の苦労を話してくれたハンスも、きっとそれを追いかける一人なのだ。 「うまく言えませんが」  と、沈思《ちんし》から帰還《きかん》したハンスの言葉でフルールも我に返る。 「期待しているんだと思います」 「期待」  フルールが繰《く》り返すと、ハンスは笑って、頭を振《ふ》った。 「忘れてください。私はその質問に答えるにはまだ若すぎる」  それが門前|払《ばら》いを食らわせるような拒絶《きょぜつ》の仕方であれば、意地悪く聞き返したかもしれない。  しかし、ハンスのそれは正直に難しい問題であることを認めるような潔《いさぎよ》いものだった。  きっとその潔さは、今時の騎士《きし》にはないものだろう。  ならば元貴族として、敬意を表すべきだ。 「変なことを聞いた」  その一言に、ハンスはいたずらっぼく片目だけ開けてこちらを見る。 「いいえ」  多分、仲良くなれたのだと思う。  それに、フルールは言葉以上の答えを貰《もら》っている。 「ありがとう」  短く、そう答えていた。  彼らは潔く、謙虚《けんきょ》に、しかも誰《だれ》よりも貪欲《どんよく》に道をひた走る。  つかの間のやり取りのあと、再び干草《ほしくさ》を仕入れるための打ち合わせを再開したが、それに対するフルールの気持ちは先ほどまでと打って変わっていた。  干草を仕入れるために、まさかそこが昔ボラン家の領地だったとも知らず、どこの干草が良くて、どの村のどの責任者に話を通せば仕入れが円滑《えんかつ》にいくかという話を聞くハンス。彼が愛想の良いところを見せてくれるようになったのは、フルールの存在が自分にとって有益だからだ、というのはもちろんとっくのとうにわかっていること。  しかし、自分の利益のためになるのなら相手に優《やさ》しくなる、というのは、なんとなく卑《いや》しく心の貧しいことのように聞こえるけれども、実際は少し違《ちが》うのかもしれないと思っていた。  彼らが追い求めるものは、生まれながらの賢人《けんじん》たちが優雅《ゆうが》に追いかけるものではない。  鞭《むち》で叩《たた》かれ、棒で殴《なぐ》られてもなお諦《あきら》めずに前に進もうという彼ら。  そのための一助になってくれる相手になら、それは優しくなろうというものだ。  では、我が身に立ち返って。  フルールが、その日もいつものように商会で諸々《もろもろ》の話をまとめ、冗談《じょうだん》まじりに情報料の交渉《こうしょう》を終えての帰路、町のはずれから港に続く通りを横切ろうとした時のことだ。  疲《つか》れを隠《かく》しきれないくせに、どこか晴れ晴れとした顔で馬を引いて歩いていたミルトンと出会ったのだが、その時、頭にあったのはただ一つのこと。  互《たが》いに協力し、利益を最大化して、折半するというそのことは、単に明日買うパンのための金を稼《かせ》ぎましょうという意味ではない。  自分を追い出した家を見返したいがために、金を稼ぎたいと言っていたミルトン。  だが、そんなことのためにこれほど身を削《けず》り、その挙句《あげく》にどこかすがすがしい笑顔《えがお》を見せられるだろうか。  きっと、ミルトンも同じなのだ。  期待をしている。  商《あきな》いの道の先に、自分の足で歩くその道の先に、期待をしているのだ。  だとすれば。  疲れきって、今すぐにでもベッドに倒《たお》れ込みたそうなミルトンの前に立ち、フルールは挨拶《あいさつ》でもなく、ねぎらいの言葉でもなく、こう言っていた。 「服の仕入れの話なんだが」  その言葉に驚《おどろ》いたミルトンの顔は、ゆっくりとだが確実に、不敵な笑顔に変わっていったのだった。  打ち合わせの場所はフルールの家を提供した。  屋根の継《つ》ぎ目《め》から鼠《ネズミ》の抜《ぬ》け穴《あな》まで把握《はあく》しているベルトラがいるので、計画を盗《ぬす》み聞きされる心配がない。  それに、壁《かべ》を隔《へだ》てたすぐ側《そば》にオーラーがいる。  頭巾《ずきん》などなくても、その安心感があれば百人力だった。 「商会には仕入れの代理をお願いする、ということで話がまとまっています」 「今、付き合いのある商会には、新しい商売を始めることは話したのか?」 「ええ。だから最後に大きく儲《もう》けを出さなくてはなりませんでした」 「遅《おく》れた理由はそれ?」  フルールの言葉に、ミルトンは疲れたように笑った。 「そうです。ですから、しばらくあの家には行けません。無理やり商品をねじ込んできたというわけではありませんよ。庭師の見習い小僧《こぞう》にまで服を売りつけてきましたからね、誰《だれ》かが急に太りでもしない限り服はもう当分必要ないでしょう」  ミルトンが出発しようとしていたあの時、馬に積んでいたのは二十枚のなにかだった。  それが単純な前掛《まえか》けにしたって、使用人全部に行き渡《わた》らせてもなお余る数だろう。  無理をしてきたに違《ちが》いない。  しかし、それはミルトンの販売《はんばい》技術のすごさを証明する。  決して、この取引は損になるものではない。 「ならば、私たちがこれから仕入れて服を売る場合でも、最悪あなたが死ぬ気になれば損をすることはないということか」  ミルトンは、一週間前よりもあかぎれの増えた手で顎《あご》を撫《な》でる。  そこには、貫禄《かんろく》の窺《うかが》える短い鬚《ひげ》がある。 「その通りです。もっとも」 「ん?」  フルールが聞き返すのと、ミルトンが目を天井《てんじょう》に向けるのは同時だった。  甲高《かんだか》い声を立てて、梁《はり》の上を鼠《ネズミ》が走っていた。 「もっとも、本当に死《し》に物狂《ものぐる》いでしたからね。できればああはならないようにしたいものです」  フルールの顔ではなく、ミルトンは鼠のほうを見ながら言った。  その言葉の「ああは」がなにを指すのか、フルールは表情に出さないように努めながら推測《すいそく》する。  多分、それは死に物狂いに売りつけてきたという事実そのものと、そして、屋敷《やしき》の中をちょろちょろと走り回る鼠のごとくだった、という二つの意味なのだろう。 「フルールさんが心配されていることがありますよね」 「え?」  つい聞き返してしまう。  オーラーから事前に言い含《ふく》められていたことに、わからない時には無言で考えながら次の言葉を待て、というものがあった。  わからない時にすぐに聞き返してしまっては、相手をいたずらに有利にする。  だから、ミルトンがくすりと笑った瞬間《しゅんかん》、それを笑われたのだと思ってしまっていた。  それがそうではないとわかったのは、他《ほか》ならぬミルトンが口を開いたからだ。 「借金がね、あったんですよ」 「借金」  疑問|符《ふ》はつかない。  その言葉は、聞き返すまでもないほどに、自分の耳になじんでいる。 「ええ。そもそも私の能力を最初に見込んでくれたのはまた別の商会でしてね。ただ、私の立場につけ込んでそれはもうひどい扱《あつか》いでした。そこに、当面の衣食住のための資金を貸し出してくれたのが、今の商会です。幸運だったとは思いますが、感謝はしていません」  フルールは、その謎《なぞ》かけの答えがすぐに思い浮かぶ。  ミルトンの口元だけが野卑《やひ》な傭兵《ようへい》のような笑《え》みに変わり、おもむろに滔々《とうとう》と語り出した。 「労働は尊いことである。だが、入は昼に働けば夜は眠《ねむ》らなければならない。それは神がお定めになられた世の真理である。だというのに、昼夜の区別なく、聖なる日も喜びの日も悲嘆《ひたん》の日ですらも働き続ける者がいる。そんなことは、悪魔《あくま》の力を借りなければできはしないのに」  有名な説教だ。  フルールは、その最後の句を知っている。 「その者の名は、高利貸し」  当面の衣食住のための資金は、きっと今からすれば取るに足りない金額だったに違《ちが》いない。  しかし、貪欲《どんよく》な商人たちであればきっとその金利はわずかな期間で十割二十割が当たり前だったはずだ。  元夫が資金|繰《ぐ》りに行き詰《づ》まり、連日連夜借金を申し込み、ついに三角の帽子《ぼうし》を被《かぶ》った髭面《ひげづら》の高利貸しを屋敷《やしき》に呼んだ時、彼らの口から出てきたのは半年で七倍というものだった。  最後に大儲《おおもう》けをする必要があったのは、借金を叩《たた》き返すにはまとまった金額が必要だったからだろう。  借金とは犬の首につけられる首輪よりも強い。  そして、それがなくなれば恩も仇《あだ》もない。  ただ、そこでフルールは気がついて、改めてミルトンの目を見つめ返した。  驚《おどろ》いたのは、ちょっとした余興のように有名な説教を語っていたミルトンの目が、いつの間にか穏《おだ》やかなそれに変わっていたからだ。  帰ってくると言えば必ず帰ってきて、大丈夫《だいじょうぶ》だと言えば必ず大丈夫で、貴女《あなた》をお守りすると言えば本当に守ってくれるようなそんな誠実な光。  フルールは、一瞬《いっしゅん》言葉に詰《つ》まる。  なぜならば、借金によって苦労をしてきたはずのミルトンは、その借金を再びしようとしているのだから。 「私が」  フルールは言って、緊張《きんちょう》のせいで顎《あご》が上がって途切《とぎ》れてしまう。  ミルトンは柔《やわ》らかく目を伏《ふ》せ、「私が?」と静かに聞き返してくる。 「私が、金利を取ると言ったらどうするつもりだったんだ?」  商《あきな》いの世界でなくとも、金が力であることは誰《だれ》だって知っている。  フルールが家屋敷を出て悲惨《ひさん》な目に遭《あ》わなかったのは、オーラーがいたからでもベルトラがいたからでもない。  元夫に対するささやかな復讐《ふくしゅう》として、その財布《さいふ》から細々とくすねていた貨幣《かへい》があったからだ。  ミルトンは金を稼《かせ》ぐ力をフルールなどとは比べ物にならないほど持っている。  しかし、力関係はフルールのほうが上。  自分一人では服すら着れないうえに、給金すら出していなかったフルールが屋敷では貴族というだけで使用人の全《すべ》てからかしずかれていたようなもの。  ミルトンは、顔を上げて、ゆっくりと言った。 「一目見た時から、お優《やさ》しい方だろうなと思っていましたから」 「っ」  平静を装《よそお》うのには、失敗した。  顔が上気しているのがわかる。今更《いまさら》顔をうつむかせても遅《おそ》い。  それでもフルールは目をそらし、咳払《せきばら》いを挟《はさ》んで口を開く、 「そ、損得が絡《から》めば人は変わる。わ、わかっているだろう?」  オーラーからの受け売り。  ただ、この状況《じょうきょう》で口にできたのは、それが他人からの受け売りだったからだ。  自分の頭で言葉を考えようとしたら、きっと、それはミルトンに対する気持ちで埋《う》め尽《つ》くされてしまう。 「ええ、もちろんです。ですから、損得の絡む瞬間《しゅんかん》に人の本音が見える。そして」  ミルトンが、笑う。 「貴女《あなた》は金利を取らないおつもりだ。貴女の本音は確認《かくにん》させていただきました。それは今この場でたとえ貴女があの頭巾《ずきん》を被《かぶ》っていても、わかったことでしょう」  商人としてではなく、一人の貴族の娘《むすめ》として扱《あつか》われていることがわかりすぎるほどにわかる。  本来ならば怒《おこ》り、どうにかして切り返さなければならないところだった。  しかし、それは嫌《いや》になるくらい、泣きたくなるくらいに心地《ここち》よいことだった。  霜焼《しもや》けになった場所を掻《か》くような、もどかしい心地よさ。  降参するように、喉《のど》の奥から言葉を搾《しぼ》り出していた。 「金利は……取らない。なぜなら、儲《もう》けを折半する、と約束したからだ」  フルールは、せめて見栄《みえ》だけでも張りたくて、短い言葉を付け足した。 「商人として、約束は守らなければ」  ただ、ミルトンは容赦《ようしゃ》がない。 「文書にはしていませんよ」  だから金利をつけようと思えばまだ間に合う、ということだろうが、そんなことを言われて今更文章にできるわけがない。  フルールが一つずつ不安を潰《つぶ》していったように、ミルトンはミルトンで自分の不安を潰したかったのだろう。  フルールが首を横に振《ふ》ると、ミルトンは表情を変える代わりに、ふっと体の力を抜《ぬ》いたように椅子《いす》の背もたれに体を預けた。  演技にも見えない。  それで初めて、ミルトンも緊張《きんちょう》していたことに気がついた。 「これで、お互《たが》い具体的な話に入れますかね」  二人の間にぽんと投げられたそんな言葉。  さすが家を追い出されても貴族の男。  戦い終わって間もないけだるさの中、会話をきちんと引っ張ってくれる。 「こちらも、そちらを信用できそうな気がする」  実際に、懸念《けねん》は打ち消された。  ミルトンは最も合理的な判断を伝って、ここにやってきている。  あとは、服を仕入れて、売るだけだ。 「では、服の種類と数の話に移っても?」 「よろしく」  フルールはうなずき、はっきりと言った。  夕食の席。  テーブルを囲むのは、フルールにベルトラ、それからオーラーのいつもの構成だった。  フルールはミルトンも是非《ぜひ》にと誘《さそ》ったのだが、固辞されてしまった。  ただ、よくよく考えればミルトンは服を運んで売り捌《さば》き、帰ってきたその足でフルールの家で契約《けいやく》の話をした。  食事よりも先に休憩《きゅうけい》をしたかったのかもしれない。  そんなことを思いながら、ミルトンの提案した服の種類や色、柄《がら》、それに産地や数をオーラーが確認《かくにん》するのを待っていた。 「ふむ」  全《すべ》てを見終えて、オーラーがまず口にしたのはそんなため息だった。  歳《とし》が歳だからか、目を閉じて背もたれに体を預けてゆっくりと、長く大きく深呼吸をする。  若干《じゃっかん》不安はあったものの、オーラーの額には皺《しわ》が寄っていないので、悪い内容ではなかったはずだ。 「さすがでございますな」  ただ、そんな褒《ほ》め言葉が出てくるとは、思っていなかった。 「悪くないのか?」 「ええ。むしろ、良い、でございます。貴族様の趣味《しゅみ》が移ろいやすいとはいっても、基本的に押さえるべきところは変わりません。当世風の明るい柄に薄《うす》い布地。きちんと遠方の地の得意な品を把握《はあく》しているのも素晴《すば》らしい。あとは御仁《ごじん》の口のうまさにかかっているわけでございますが……」 「それは、拝見ずみ」  フルールが自嘲《じちょう》気味に言うと、オーラーはすまし顔で、小さく咳払《せきばら》いをした。 「では次に、ポースト家のご子息との金銭に関する契約《けいやく》書についてでございますが」 「……まだなにか?」  それは不機嫌《ふきげん》になって聞き返したというよりも、半分|呆《あき》れて言ったというほうが近い。  ミルトンとの間に交《か》わす金銭の貸し借りと利益に関する取り決めは、フルールがまずまとめ、次にオーラーが利益の一滴《いってき》も逃《のが》さないようなといった目で検査し、大幅《おおはば》に書きなおした。  それも、取り決めのみならず文語《もんごん》にまで及《およ》ぶ徹底《てってい》した書きなおしだ。中には遠まわしであったり、同じことをいうのでも普段《ふだん》は絶対使わないような単語を使用する。まるで単語の綴《つづ》りを学んでいた子供の頃《ころ》に戻《もど》ったような気分で、実際にオーラーは少しでも文字が乱れただけでため息と共にべルトラを呼んだ。  書きなおすたびに、安くもない紙を持ってくるベルトラの顔に皺《しわ》が増えていくのがよくわかった。 「いくら注意を重ねても重ねすぎるということはございません。この契約書に不備があれば、せっかくの儲《もう》けを全《すべ》て持っていかれることにもなりかねませんからな」  何十年と、それこそ物心ついた時からひたすらに商《あきな》いの世界にいたオーラーが言うのだから、実際にそうなのかもしれない。  しかし、それにしたって限度があるだろうに、とどうしても思ってしまう。  なにより、契約の相手はあのミルトン。  根っからの商人ではなく、元は家の名誉《めいよ》と自身の誇《ほこ》りに懸《か》けて約束をする世界に生きていた者なのだ。  むしろ、契約の前にこんなにも猜疑《さいぎ》に満ちた契約書を書いていたと知ったら、気分を害するかもしれない。  少なくとも、自分はそうなのだが、とフルールは一人思う。  そんなフルールの胸中を知ってか知らずか、オーラーは文字を読む時の常で、体を引いて、紙を遠くに離《はな》して目を細めながら小さく文章を読み上げる。 「神の御名《みな》において。フルール・フォン・イーターゼンテル・ボランより、親愛にして誠実なるミルトン・ポーストに向けて。神の采配《さいはい》により出会った二人が、共に協議してジョンズ商会を通して仕入れる毛織物、麻《あさ》織物、銀細工における代金を、全てボランが負担する。ただし、仕入れ代金の五割をポーストの借金として数えることとする。仕入れた品の売り上げで、その借金を帳消しとする。この借金について、ボランは金利を取らないこととする。利益については二人で折半とする。仕入れた品については、全てボランの所有物とする。以上、神のご加護があらんことを」  滔々《とうとう》と読み上げて、オーラーはなおもじっと紙から目を離さない。  散々文章を練って、使う単語を吟味《ぎんみ》して、ようやく書き上げたというのに、だ。  ただ、フルールにはこのあとオーラーがなにを言うのかも、大体予測ができていた。 「ポースト家の方の借金分についてですが」  あまりにも予測通りで、フルールは抗議《こうぎ》の意味も含《ふく》めてパンを取る。 「五割でいい」  短い言葉は揺《ゆ》らがない。  オーラーはじっと見つめてくるが、譲《ゆず》る気はなかった。  契約《けいやく》書のその部分は、要するにミルトンが目算を誤り、仕入れた分よりも少ない値段でしか売れなかった時、どこまでフルールが損を負うかという取り決めだ。  オーラーによれば十割以上が当たり前で、がめつい商人ならば十五割や二十割という数字も平気で提示するという。それはやりすぎにしても、教会が渋々《しぶしぶ》認める「金を借りたお礼」の範囲《はんい》内に相当する利子が、大体一年で二割から三割というのだから、仕入れてから売るまでに数年かかることもおかしくない取引では、破格すぎる内容だろう。  利益が折半でなおかつミルトンの責任が仕入れ代金の五割など、聞いたこともない神のように慈悲《じひ》深い条件だとオーラーは目を剥《む》いた。  それでも、フルールの考えでは五割だ。  ミルトンを信用しているということもあったが、もっと重要なことがあった。  それは、自分にはお金が少しあるだけで力がなく、対するミルトンには大きな力があるということだ。ただ貴族の家柄《いえがら》に生まれたというだけでベルトラやオーラーが頭《こうべ》を垂《た》れるように、ただ金を持っているだけでミルトンに頭を垂れさせるのは我慢《がまん》がならなかった。  力を借りる代わりに、こちらも危険を負う。それで初めてミルトンと対等になれる気がしたし、そうでなければ卑怯《ひきょう》だと思った。  いや、卑《いや》しいとすら思ってしまった。  元夫はまさしくその卑しさの権化《ごんげ》のようであったが、それで招いた不幸だって多かった。そんなことをしなくても、ひたすらに利益を追いかけることはできるはず。  フルールはそう考えていた。  確かにそれは甘い考えなのかもしれない。  しかし、本当に信用のできる相手を見つけられればそうでもないのではないか。  オーラーにはそう説明したし、そもそも損をするつもりはないのだからこの取り決めでなんの問題もないはずだ、と説き伏《ふ》せた。  じっとフルールのことを見つめていたオーラーは、目を閉じ、大きく息を吐《は》く。  折れてくれた。  フルールの肩《かた》からも力が抜《ぬ》けて、笑顔《えがお》が戻《もど》る。 「では、私が言うべきことはこれ以上ございません。あとは、きちんとうまくいくことを神に祈《いの》るだけでございますな」  紙の束を片づけ、オーラーはベルトラが相変わらずの才覚で安く仕入れてきた小麦パンに手を伸《の》ばす。 「いくさ。神に祈《いの》らなくとも」  オーラーのお墨付《すみつ》きを得て、さらにあの口のうまさを目《ま》の当《あ》たりにすれば、もはや神に祈ることすら必要ないだろう。  フルールはそう思って上|機嫌《きげん》にスプーンを取ってスープに取り掛《か》かろうとしたら、オーラーの咳払《せきばら》いがもう一度聞こえてきた。 「油断めされるな。なにが起こるかわからないのが商売でございます。我々がなにひとつ悪いことをしなくとも、例えば船が難破して荷が届かなくなったり、万事つつがなく仕入れ終わった服を売りに行く途中《とちゅう》で山賊《さんぞく》に盗《と》られるかもしれません」  オーラーの言葉は容赦《ようしゃ》なくフルールの心に水を差す。  フルールが笑顔《えがお》から一転、ぶすっとした顔でスープをすすったのは、その指摘《してき》が実に的を射たものだからだ。  確かにそういった可能性は無視できないしするべきでもない。  だからといって、それに怯《おび》えていては何事も前に進みはしないのではないだろうか。 「まあ、気を揉《も》むのは裏方の仕事ですからな。お嬢様《じょうさま》までもが私のようにあれこれ思い煩《わずら》っていては、進む話も進みません」  スープの味がわからなくなってしまったのは、オーラーに気遣《きづか》われたと思ったから。  オーラーの指摘に腹が立ちこそすれ、その指摘そのものはなにも間違《まちが》ってはいないし、不機嫌になるのはお門違いといえる。  ただ、フルールが顔を上げると、オーラーは遠くを見るような目をしたままの苦笑い。  こういう表情をしている時、オーラーの視線の先にあるのがなんなのか、フルールはよく知っている。  フルールの元夫。オーラーの、元主人だ。 「我が元|主《あるじ》も、向こう見ずな方でございましてね。いや、あのお方なりに計算し尽《つ》くされ、私などには見えないなにかを見ておられたことは確かでございますが……。なにせ、実際に私の心配が杞憂《きゆう》に終わったことは数知れませんでした。世に天賦《てんぷ》の才というものはございますが、先頭に立たれて突《つ》き進む方と、その後ろにつき従うことでむしろ才を発揮する者とは、歴然としたなにか大きな差があるようでございます。その点お嬢様は」  と、オーラーは視線を遠くの過去の記憶《きおく》から、目の前のフルールへと向ける。 「前者でございましよう」  時折オーラーが見せる、からかいや冗談《じょうだん》の類《たぐい》ではない。  フルールがスプーンを置いて、口を拭《ぬぐ》ってからはにかむように笑ったのは、照れ隠《かく》しだ。 「面と向かって言われると恥《は》ずかしいな。それに、そんなことを言われては調子に乗ってしまう」 「そう自覚されていれば問題ございません。それに、心配するのは私の仕事でございますからな。注意もそのうちの一つ。もちろん、ベルトラも控《ひか》えておりますからね」  使用人の鑑《かがみ》らしく、主人たちの会話にはまったく興味を示さない。  というよりは、多分ベルトラの頭の中は単純にこのあとの家事のことで一杯《いっぱい》なのだろう。  屋敷《やしき》では幾人《いくにん》かの使用人たちで分担していた諸々《もろもろ》のことを、ここではベルトラが一手に担《にな》わなければならない。  オーラーの言葉にはっと我に返ったベルトラは、少し頬《ほお》を赤くして、深々と頭を下げてしまう。多分、怒《おこ》られたと思ったのだろう。 「ベルトラに怒られるのが、私は二番目に辛《つら》い」  フルールは少し笑いながら、なんのことかと怪訝《けげん》そうにするベルトラを見ながら言った。 「では、一番目は?」  そして、オーラーの質問にこう答えた。 「ベルトラに泣かれるのが一番辛い」  目を白黒させるベルトラは、それでも概《おおむ》ね自分がどんな話題に上っていたのか理解したらしい。赤くした頬に自分の手を当て、「ご冗談《じょうだん》はおやめください」と言ってくる。  しっかりしている、という意味では自分よりもよほど大人であろうベルトラを、フルールは可愛《かわい》らしく思ってつい笑ってしまう。 「私めの出番はないようでございますな」 「嬉《うれ》しいことの一番に出てくるかもしれない」  老商人は、降参するように手を挙げる。 「神のご加護を」  夜は、静かに更《ふ》けていったのだった。  船の出入りは激しい。  昨日遠路はるばるやってきて、補修や補給もそこそこに、すでに明日にはいなくなっている、といった塩梅《あんばい》だ。  しかも、船員と船の安全を祈《いの》る聖職者の数は限られている。  この便を逃《のが》せば次の商《あきな》いまで一月《ひとつき》以上も時間を失ってしまう、ということがざらにあるらしい。  ミルトンと打ち合わせをした昨日の今日で、昼過ぎにはフルールはミルトンと共にジョンズ商会のテーブルについていた。  ただ、その場に商会|側《がわ》の人間として契約《けいやく》をするハンスの姿はない。  ハンスを通して商会と契約する前に、フルールとミルトンの間には交《か》わすべき契約があった。 「これを、いいかな」  事前にオーラーに見てもらい、注意深く文言《もんごん》に至るまで直してもらっている、件《くだん》の契約《けいやく》書。  ミルトンも使いの小僧《こぞう》でなければ、一目見てなにかわかるはず。  貴族同士が紙に書いた取り決めを交《か》わすということは、相手を信用していないか、さもなくば侮辱《ぶじょく》しているとも取られかねない。  どく、と胸の内で心の臓が痛むのは、きっと気のせいではないだろう。  ミルトンは差し出された紙を受け取りざま、不意に顔を上げてフルールを見る。肩《かた》がすくみ、ミルトンが怒《おこ》るその様が脳裏をよぎる。  しかし、ミルトンは怒るどころか、ほっと安《あんど》堵したように笑い出したのだ。 「やあ、これで安心しました」  言葉の意味が掴《つか》めなかったフルールは、間抜《まぬ》けにも聞き返してしまう。 「安、心?」 「ええ。まさか本当に口約束だけではないだろうなと……いえ、フルールさんを信用していないわけではありません。だって、命よりも大事なお金を貸してくださるのはフルールさんのほうですから。もしもそんなお金を口約束だけで貸していただいたら……」  ミルトンは、腰《こし》に差してある短剣《たんけん》をぽんと叩《たた》いて、冗談《じょうだん》めかして言った。 「私は、騎士《きし》のように命を懸《か》けなくてはならない」  その言葉に、フルールは「あっ」と気がついた。  商《あきな》いは貴族と騎士の関係とは違《ちが》い、互《たが》いの責任を明確にし、利益と損をやり取りする。  たとえこちらが無限の信用を置いていても、相手がこちらにもたらせる利益はとても小さいものかもしれない。  それこそ、居|心地《ごこち》が悪いくらいに。  信用をたくさん置いたからといって、返礼をいつもそれに見合ったものにできるとは限らないのが商いだ。  騎士ならば、命を懸けることができる。  商人は、そうはいかない。 「ですが、もちろん嬉《うれ》しくもあります。信用していただいて、嬉しくない商人がいないわけがありませんからね。しかも、この数字……。私は、またがむしゃらにならないといけない」  それが単なる取引上の数字であるのに、ミルトンの言葉にやや頬《ほお》が赤くなってしまう。  どれだけ相手を信用しているかは、そのまま好意と受け取られたっておかしくない。  ただ、ここは商会の一室だ。  フルールは言葉を選んで口にした。 「戦《いくさ》に何度も行かれたという老いた騎士に聞いた。そこになんの不安も存在しない時、存分に力を出すことができる、と」 「そして、不安は信頼《しんらい》で取り除くことができる」  ミルトンはざっと紙に目を通すだけで、その末尾に署名をしてしまう。  条件が良いとはいえ、場合によっては借金を背負う契約《けいやく》だ。 「これで、次は私が貴女《あなた》の不安を取り除く番ですね。売りまくりますよ」  元夫が部屋で怒鳴《どな》っていたその言葉。  売りまくれ、買いまくれ。  もう下品だとは思わない。  その言葉の響《ひび》きは、戦場にとどろく馬蹄《ばてい》のそれだ。 「では、仕入れに移りましょう」  ミルトンに続いてフルールも署名を終えると、机の上の小さな鐘《かね》を鳴らし、ハンスを部屋に呼び戻《もど》したのだった。 「ルビック産の薄手《うすで》の毛織物、各色各種合わせて二十二枚。イーリンの職入組合が織って染めた印章つきの麻《あさ》織物でこしらえた衣服、各色合わせて二十枚。それに、クワイフルトの銀細工四個……」  ミルトンが並べ上げ、フルールが紙に写していった商品目録を、ハンスがゆっくりと読み上げていく。  相変わらずの顔つきなので、その商品目録に対してどんな感想を抱《いだ》いているのかまったくわからない。  ただ、フルールはなんとなく好|感触《かんしょく》なのではないかと思っていた。  もっとも、どちらにせよフルールたちはハンスのところを通じて商品を買うだけなので、たとえ突飛《とつぴ》なものであっても問題はないのだが。  ハンスはもう一度書かれている商品と数、それに詳《くわ》しい色や値段を見なおすと、目頭《めがしら》を揉《も》んでからミルトンを見た。 「ルビック産の物は二十二枚集められるかわかりません。今、あちらの毛織物は大人気でしてね。生産能力そのものには問題ないのですが、こちらの足元を見て職人たちが商品の値上げを行っているところです。おそらく、十から十五。金に糸目をつけないというのであれば、そのように注文いたしますが」  もちろん、購入《こうにゅう》金額の大きいほうが、ハンスたち仲介《ちゅうかい》の商会は大きい利益を手に入れられることになる。  しかもすぐには確認《かくにん》できない海を渡《わた》った先のこと。相手の発言の真偽《しんぎ》を確かめる術《すべ》はない。  しかし、ミルトンは迷うことなく即答した。 「値段は動かせません。その範囲《はんい》内で可能な限り集めてください」 「畏《かしこ》まりました」  ハンスは紙に直接注意書きを入れ、次の商品に移る。 「イーリンの物は、この色なら大丈夫《だいじょうぶ》でしょう。組合の印章料込みでも、この値段で買い付け可能だと思います。クワイフルトの銀細工は……どこの工房《こうぼう》であっても?」 「構いません。ただし、真珠《しんじゅ》と珊瑚《さんご》の嵌《は》め込まれたもので」  ミルトンの返事に、ハンスが初めて片眉《かたまゆ》をつり上げる。 「なるほど……あちらの琥珀《こはく》はもう流行ではないと」 「そうは言いませんが」  妙《みょう》な含《ふく》みのあるやり取りは、互《たが》いにいがみ合っているようでもあり、仲が良いようでもあり。その感覚はフルールに交渉《こうしょう》の技術が足りないからというよりも、子供の頃《ころ》に経験した、男の子同士だけで通じる秘密を目の前で囁《ささや》き合われたような、そんな疎外《そがい》感に似ていたかもしれない。 「畏《かしこ》まりました。鋭意《えいい》努力してこれらの商品を買い付けてまいりましょう。では、こちらにお二人のご署名を」  とん、とテーブルの上に商品目録を置いて、ハンスは紙の下の部分を指差した。  契約《けいやく》書代わりということだろう。  ミルトンがこちらを見て、フルールは小さくうなずいた。  羽根ペンはミルトンが受け取り、先に署名するとフルールに席を譲《ゆず》る。 「商品名をもう一度ご確認《かくにん》ください」  テーブルの脇《わき》に控《ひか》えながら、ハンスは短くそう言った。  海を渡《わた》った先での買い付けのこと。間違《まちが》いがあった際、取り返しをつけるのはそう簡単なことではない。特に色については綴《つづ》りが似通っているものも多く、万が一にも間違えていたら大変なことになる。  だから、商品と注意書きを記した紙に署名をするのは、フルールたちの防衛線にもなり、ハンスたちの防衛線にもなる。  言った、言わないの水掛《みずか》け論《ろん》ほど見苦しいものはない。  今まではただ覚えていただけのオーラーの言葉に、少しずつ血が通ってくるのがわかる。 「これでいいか?」  フルールはしばし何度目かわからない確認をして、フルール・ボランとその名を書いた。  ハンスがその名を目に留めてちらりとこちらを見る。  無表情の仮面の下にちょっとした驚《おどろ》きが見えたが、こちらもそ知らぬふりをしておいた。 「結構です。では、最後に私が署名いたします。神の、御名《みな》において……」  ミルトンやフルールがペンを持ちなれていないというわけではないが、ハンスのそれは明らかに二人とは一線を画している。  椅子《いす》に座ることもなく、立ったまま、テーブルの上の紙に署名をしているというのに、その筆致《ひっち》はその場にいた誰《だれ》よりもしっかりと、そして優雅《ゆうが》だった。名前の下にはこれが三人の間で交《か》わされた証書であることを示すために、決まり文句である神への宣言がしたためられる。  しかも、ハンスは自身の名前を書く時には優雅《ゆうが》な筆致《ひっち》で、神への宣言を書く時には荘厳《そうごん》な筆致で書いていた。  いくつもの筆跡《ひっせき》を使い分けられるのかもしれない。  商人たちの多才ぶりはどこまでいくのだろうか。 「では、当商会はお二人との間に、お二人に代わってこの商品を仕入れるという契約《けいやく》を締結《ていけつ》しました。神のご加護があらんことを」  これまでもオーラーの助けを受けながら商《あきな》いをしてきたが、こんなふうに書面を交わすのは初めてだった。  ハンスの言葉によって、フルールとミルトンの署名がされた紙は、これから二人の運命を決するものとなる。それはもう後戻《あともど》りできない道に入ってしまったような、そんな後悔《こうかい》にも似た感覚をもたらすものだ。  それでも、フルールはゆっくりと息を吸って、吐《は》いた。  心地《ここち》よい緊張《きんちょう》だった。 「よろしくお願いします」  ミルトンが手を差し出し、ハンスと握手《あくしゅ》をする。  そして、そのハンスがフルールに手を差し出してきて、フルールは驚《おどろ》きつつも、正直|嬉《うれ》しかった。ようやく一人前の商人に手が届いたような、そんなふわふわとした気持ちだった。 「仕入れには概《おおむ》ね二週間くらいかかるでしょう」 「そんなに早く?」  フルールが聞くと、ハンスは少し笑いながらうなずいた。 「これらの商品を一つずつ各々《おのおの》の町に買いに出かけていては、確かに買い集めるのに何年もかかってしまいます。ですが、ここに書かれている商品が素晴《すば》らしいのは、入手も容易なところです。あちこちからたくさんの商品が集まる、貿易の要《かなめ》になる町をきちんと探せば、必ず見つかるであろう商品ばかりです。それで、二週間。もちろん、船が遅《おく》れればその限りにはありません」  インクが乾《かわ》いた頃合《ころあい》を見計らって、ハンスは署名がなされた紙を丁寧《ていねい》に巻いていき、机の引き出しに入れてしまう。  フルールは「あっ」と思ったが、商会を介《かい》する取引ではそういうものなのかもしれない。  なにより、つけ込まれるようなことはなにも書いていない。あそこに記されたとおりの物を仕入れてもらえばそれでいいのだし、仕入れていなかったら抗議《こうぎ》することができる。  そう思いなおし、フルールは視線を誤魔化《ごまか》すために壁《かべ》に並べられた棚《たな》に向けた。  部屋に備え付けられた棚に並ぶ無数の紙も、きっとこうした誰《だれ》かと誰かの商いを文字にしたものなのだろう、と思うと感慨《かんがい》深い。  ざっと見ただけでもものすごい数がある。  この世には一体どれだけの取引があったのだろうと考えると、気が遠くなりそうだった。 「うまくいくとよいですね」  何気ない感じで言ったハンスの言葉に、フルールはミルトンと揃《そろ》って、笑顔《えがお》でうなずいたのだった。  商売の成功を祈《いの》って、とジョッキをぶつけ合わせたのは、ハンスの紹介《しょうかい》を受けてミルトンと初めて出会った立ち飲みの酒場だ。  朝は港から町の外に向けて陸路での運搬《うんぱん》が大忙《おおいそが》しだが、昼を過ぎると今度は船から港に荷揚《にあ》げする作業が忙しくなる。夕暮れ時になれば次は港に集まってきた大量の荷物を船に載《の》せる作業となる。  そして、船は翌朝早くに港を出る。  もう何十年と続き、飽《あ》きずに繰《く》り返されてきた作業。  フルールは、今日、初めて自分がその大きな流れに本当に参加したのだと思えて、口にしたビールが胸にしみた。  口数が少なくても、ミルトンはどうしたのかと聞いてこない。  ただ、静かに対面で微笑《ほほえ》んでいた。  服を仕入れて売る。利益を折半しても、その儲《もう》けは多ければ仕入れた金額の二割になる。それがどれほどのものかは、少し数字を書いて計算してみればいい。一回目で二割の利益。次はその二割を足した仕入れ値に対して二割。それを繰《く》り返していくと、四回目には倍になり九回目には五倍になる。二週間で仕入れができるとすれば、販売に一週間として、一年に十七回ほど商《あきな》いをすることができる。  その時の儲けを考えてみれば、フルールはつい笑ってしまう。子供のように夢中になって、次々数字を書いていったことを思い出したからだ。  一年|経《た》つと、元のお金の二十二倍。  商人たちが貴族など鼻で笑うような儲けを出せるというのもこれで納得《なっとく》がいく。彼らはこんな儲けをきっと毎年のように出しているに違《ちが》いない。商いというものはなんと簡単なのだろう、と言ったらきっとオーラーはまた目を剥《む》くだろう。  しかし、そう言いたくなるくらいに展望は明るかった。良き出会い、というのはあるものなのだ。  フルールは、いつもより幾分《いくぶん》駆《か》け足《あし》で一|杯《ぱい》目を飲み干してしまう。酒はそんなに飲めるほうではないが、いくらでもいけそうだった。 「あまり浮かれていると、足元をすくわれてしまいますよ」  ようやく口を開いたミルトンの言葉がそんなものであるくらい、フルールは浮かれていたらしい。二|杯《はい》目を注文し終わってすぐのことで、店主に向かって掲《かか》げた手を恥《は》ずかしげに下ろす。  きっとオーラーに言われたら不機嫌《ふきげん》になっただろうが、フルールは照れ笑いだった。 「まあ、かく言う私も、昨晩は夜中に目が覚めてしまいまして。蝋燭《ろうそく》の灯《あか》りを頼《たよ》りに、儲《もう》けのことを考えていたりしました」 「一回目で二割。四回目で倍?」  フルールの言葉に、ミルトンははっとした顔になる。  そして、笑うとジョッキに口をつけて誤魔化《ごまか》した。 「それもありますけど、こんなにうまく話が進むとは思っていなかったんです」 「それは……ジョンズ商会が意地悪をするとか? それとも、借金をしていたところが?」  港で忙《せわ》しく立ち働く者たちを眺《なが》めてから、ミルトンはフルールのことを見る。 「貴女《あなた》の信用を得られない可能性だってあった」 「……じゃあ、それも付け加えておく」  喧騒《けんそう》の中でなければ、もっとよかったかもしれない。  しかし、二人共にこんな場所に堕《お》ちてきたからこそ、今のやり取りがある。 「勝手な思い込みだったのかもしれません。もっと、商会とはあくどいところかと」  自嘲《じちょう》気味に笑って、テーブルの上に豆しかなかった前回とは違う、炙《あぶ》った羊肉をナイフで突《つ》き刺《さ》した。 「よく、悪い意味で使われますが……彼らは金さえ儲《もう》かればなんでもいいみたいですね」 「……時折、腹が立つことも、ある」  前回、ミルトンは豆を苦笑いを消すために噛《か》んだ。  羊肉には、そんな効果がなかったらしい。 「私もそう思っていました。もっと厳しい条件で、例えば信じがたい手数料を取ったりとか、契約《けいやく》に難癖《なんくせ》をつけるとかあると思っていたんです。それが、あっさりと。ジョンズ商会ほどにもなれば、きっと体面を大事にしなければならなくなってくるのでしょうけど」 「これなら、もっと楽にやっていけそうだ、と?」  フルールの言葉に、ミルトンは首を軽くかしげた。  それは否定するのでも、疑問に思うのでもない。  まんざらでもない、という仕草だ。 「もちろん、貴女からはもっと信じがたいくらいの好条件を突《つ》きつけられましたけどね」  冗談《じょうだん》めかした物言いに、フルールはわざとらしく顔を背《そむ》けた。  互《たが》いにしばらく無言で、どちらともなく我慢《がまん》しきれなかったように笑い出す。  そして、漣《さざなみ》のように笑ったあとにはいつも、綺麗《きれい》になった心だげが残る。 「これから、よろしく」  そう言って、ミルトンは手を差し出してきた。  その「これから」が今回だけの取引のことではないくらい、フルールにだってわかる。  オーラーの忠告が耳の奥で蘇《よみがえ》るが、フルールは良き出会いこそ大切にするべきだと思っている。稼《かせ》いで、儲《もう》けて、やがて。  それに、あの商人たちの目指している期待の果てになにがあろうとも、一人で追いかけるよりかはきっと二人のほうが楽しいに違《ちが》いない。その伴侶《はんりょ》として、ミルトンはそれほど悪くない。  フルールの記憶《きおく》には残っていないのだが、ミルトンと本当に最初に出会ったミラン家での晩餐《ばんさん》の時とは違い、フルールは差し出されたミルトンの手を、しっかりと握《にぎ》り締《し》める。  あの時は、相手の手にただ触《ふ》れるだけでも、帰る頃《ころ》には手が痛くなった。  だが、今は節操もなく握手《あくしゅ》などしない。  信用のできる相手と、あるいは、儲かる相手としかしない。ならば、しっかりと、力を込めて握り締める。  屋敷《やしき》を離《はな》れて自分の足で道を歩いた時に、なんと固い地面だろうかと驚《おどろ》いた時のように、初めて力を込めて握る人の手は、なんともいえない固さだった。  ミルトンはうっすらと微笑《ほほえ》んだまま、じっとこちらを見つめている。フルールも見つめ返すが、ここは白い布の掛《か》けられたテーブルの上ではない。存分に手を握り合ったあと、にっと歯を見せて、視線をジョッキに向ける。 「商人は、きっと、こちら」  フルールの言葉に、ミルトンは残念そうなふりをするのを忘れない。  きっといい相棒になれる。  フルールは、ミルトンの掲《かか》げたジョッキに、自分のそれをぶつけたのだった。  その夜、食事の際にオーラーに契約《けいやく》の経緯《けいい》を報告した。  かかりそうな時間、ハンスの提示した手数料や、ハンスが漏《も》らした感想なども付け加えておいた。  オーラーはずっと目を閉じたまま聞いていたが、最後には目を開き、ゆっくりと相好《そうごう》を崩《くず》して言った。 「うまくいくとよいですな」  ハンスとまったく同じ台詞《せりふ》に笑ってしまったが、どうやらある程度経験を積んだ商人たちはこの言葉が好きらしい。期待に満ち、さりとて楽観しすぎないところがいいのかしもれない。  まだ仕入れを注文しただけだし、荷物が届いたら今度はそれを売りに行く仕事が待っている。  しかし、フルールはその夜、久しぶりに胸になにものもつっかえさせずに食事ができたような気がした。  あとになって振《ふ》り返ってみれば、この時が運命の分かれ道だった気がする。  オーラーに契約の状況《じょうきょう》を話す際、あのことをきちんと伝えていれば。  後悔《こうかい》先に立たず。  商人たちは決して聖人ではない。  二週間後、そのことを思い知ることになる。  その二週間、フルールがしていた仕事は、元手の必要がない下働きだった。  ある程度の信用と地理感覚さえあれば、荷物を運んで欲しがる者たちは町に山とあふれている。  毛織物を縮絨《しゅくじゅう》するために遠くの水車小屋まで送ったり、帰り道には村の人間たちが町の商人に連絡《れんらく》を取るための手紙を受け取ったりした。  どれも失敗はなく堅実《けんじつ》だが、儲《もう》けはそれに見合ったものでしかない。  フルールの胸中は、仕入れた服のことで一杯《いっぱい》だった。  その商売がうまくいけば、下働きのような細かい商売はしなくてすむようになる。  そう思っていたからだ。  ミルトンはといえば、貴族たちの懐《ふところ》状況や流行を探《さぐ》るため、時折町にやってくる使用人たちを捕《つか》まえては情報収集に勤《いそ》しんでいるらしかった。  町に下りてきてわかったことだが、町から離《はな》れた場所にある屋敷《やしき》の中の情報は、それだけで金に値《あたい》するものらしい。町に買い付けに来た使用人たちが、屋敷内の状況や噂《うわさ》をあちこちに教え、対価に現金を貰《もら》っていることも知った。  彼らの多くがどういうわけか町に行きたがるのを昔から不思議に思っていたものだが、純粋《じゅんすい》に色々な食べ物があるからとか見たこともない品があるからといった理由以外に、そんな直接的な理由もあったらしい。  ベルトラに聞けば、気まずそうに顔を背《そむ》けられた。  一度ならずベルトラもやったらしい。  もしやと思ってオーラーに話を聞いてみたら、オーラーのいた商会、すなわち元夫の率いる商会にボラン家の窮状《きゅうじょう》を教えた使用人は、大金を手にしていたらしい。  多分、元夫が結婚を申し込みに屋敷の扉《とびら》を叩《たた》いたその数日前にいなくなっていた女中だろう。  今更《いまさら》その女中に恨《うら》みはないし、逆にうまいことやったものだと感心する。  目端《めはし》が利《き》く者たちはどこにでもいるものなのだ、と。 「お嬢様《じょうさま》」  と、昼食にチーズをたっぷり入れたシチューを食べていたところ、訪問客の相手をしていたベルトラが戻《もど》ってくるなりそう言った。  手には一通の封書《ふうしょ》。  オーラーを見ると、うなずかれた。 「ありがとう」  ベルトラから受け取り、申し訳程度に赤い蝋《ろう》で封をされているそれを開く。  そこにはハンスの署名と、荷を積んだ船が無事|到着《とうちゃく》した旨《むね》が書かれている。  すぐに閉じ、懐《ふところ》にしまって立ち上がる。  食事を決して残すなと口を酸《す》っぱくして言うオーラーも、この時ばかりは黙認《もくにん》してくれた。  フルールはベルトラに謝り、外套《がいとう》と頭巾《ずきん》を引っ掴《つか》んでこう言った。 「大|儲《もう》けに行ってくる」  ベルトラが大きく見開いた目や、オーラーのやれやれといったため息も軽く受け流し、外套をまとい、顔に頭巾を巻きつけ家を出る。  向かう先はミルトンが間借りしている職人たちの工房《こうぼう》だ。  まだ家の格や身分というものがよくわかっていなかった頃《ころ》、仲の良かった使用人がそこで職人として働いているようで、住む家のなかったミルトンにそこを紹介《しょうかい》してくれたのだという。  世の多くは人とのつながりで回っている。  オーラーの言葉の一つに、この話でもまた血が通ったのだった。 「失礼。ポースト氏はご在宅か」  最近になって、声音《こわね》を低くし男っぽく喋《しゃべ》るのも様になってきたと自覚している。  細長い作業台に馬乗りになって、伸《の》ばした革《かわ》を叩《たた》いていた職人の一人が、ぽかんとなってこちらを見る。  もう一度聞いて、ようやくミルトンのことだとわかったらしい。 「ああ、ミルトンさんなら昼食を取りに帰ってきてるよ。そこの階段を上がった四階だ」 「ありがとう」  礼ははっきりと、だが短く。  若い職人はたちまちにかっと歯を見せて愛想をくれる。  職人たちに気にいられる方法は、縮絨《しゅくじゅう》のための水車小屋に出入りしていて覚えたこと。  狭《せま》くて急な階段を駆《か》け上がるのも、水車が水の落差を利用して回す種類のものだったからあっという間に慣れてしまった。  短い間の商《あきな》いで確かに儲《もう》けは少なかったけれども、覚えたことは多い。  階段を駆け上がり、一気に四階までたどり着く。  そこでちょっと驚《おどろ》いてしまったのは、階段を上ればそこには廊下《ろうか》と扉《とびら》があり、一息つけると思っていたからだ。  興奮のままに階段を駆け上がり、息を切らしていたのではあまりにも格好悪い。  だというのに、階段を上って手すりを回り込もうとしたその瞬間《しゅんかん》、フルールはテーブルでつまらなそうにパンを食べるミルトンを見つけていた。 「……こんにちは」  パンを飲み下し、ミルトンが驚《おどろ》いたままの顔でそう言った。  フルールはすぐにそれに返事をしようとしたものの、なかなか言葉が出てこない。  業を煮《に》やして、懐《ふところ》から封書《ふうしょ》を取り出した。 「これを」  そして、ようやく出た短い言葉。  ただ、本当に重要なことには大して言葉を必要としないものだ。  ミルトンは椅子《いす》から立ち上がり、駆《か》け寄ってきた。 「船が?」  フルールがうなずくや、ミルトンもまた、大慌《おおあわ》てで外套《がいとう》を引っ掴《つか》んだのだった。  人や馬でごった返す港を通り、ジョンズ商会に飛び込んだ。  飛び込んだ、という表現がぴったりなのは、これまで生きてきて初めてだろう。  仕事の手を止め、目を点にしてこちらを見る商会の者たちすら、気にならなかった。 「ハンス氏は?」  ミルトンが尋《たず》ねると、商談中だったり、在庫の点検中だったりした者たちが、揃《そろ》って商会の奥を指し示す。  礼もそこそこにフルールとミルトンの二人は奥に駆けていく。  金持ちへの第一歩が、そこに待っているのだから。 「ハンスさんっ」  と、ミルトンが押し殺しつつも、なお大きい声で名を呼んだのは、ちょうどハンスがお供を連れながら部屋から出てきたところだった。  手元の羊皮紙の束に目を落としながら部屋から出てきて、こちらをちらりと見るや、その束をお供の者に任せ、いくつか伝言を残していた。  大きな取引なのだろうか、なにか緊張《きんちょう》感に似たものがそこにはあったが、こちらには関係ない。お供の者が身を低くして廊下《ろうか》を反対|側《がわ》に小走りに駆けていくと、それを見送ったハンスはようやくこちらを振《ふ》り向いて、こう言った。 「荷物ですね? 届いております」  わざとらしすぎる商売用の笑顔《えがお》に、いかにもといった体の前で合わせる手。  それは商会の人間独特の冗談《じょうだん》なのだろうと、フルールがミルトンに向けてぎこちなく笑いかけると、ミルトンもまた似たような笑顔を返してくる。  緊張しているのは、自分だけではないのだ。 「つつがなく、ご注文の品を荷揚《にあ》げいたしました。風の都合で危《あや》うく遅《おく》れそうでしたけれどもね、我が商会の面目|躍如《やくじょ》といったところでしょうか」  笑顔《えがお》で能書きをたれるハンスに、フルールは笑顔を返しつつも若干《じゃっかん》焦《じ》れてしまう。  それを察してくれたのか、はたまた同じくらい焦れていたのか、「あの」と切り出したミルトンの言葉は単刀直入だった。 「仕入れた品を受け取りたく。今日中に可能ですか?」  商《あきな》いは速度が命。  ハンスは心得ているとばかりに鷹揚《おうよう》にうなずき、奥を示した。 「裏の荷揚げ場に保管してあります。ただいま部下に注文書を取りに行かせております。ご注文の品と食い違《ちが》いがないか、確認《かくにん》していただきませんとね」  先ほどのお供の者に対する伝言はこのことだったらしいが、立派な対応だ。オーラーは、品物を受け取る前に必ず確認をしろ、と繰《く》り返し言ってきた。受け取ったあとに文句を言ったしころで後の祭りだからと。  先導するハンスに続き、ミルトン、フルールの順番で廊下《ろうか》を歩いていく。廊下にはジョンズ商会の栄光の軌跡《きせき》を窺《うかが》わせる、豪華《ごうか》な刺繍《ししゅう》で作られた巨大《きょだい》な海図や人物画が張られている。  通り過ぎる別の廊下や、扉《とびら》が開きっぱなしの部屋には、樽《たる》や木箱や大きな土器の壺《つぼ》などがあり、ここが海と陸との結節点にあるのだとまざまざと知らしめる。裏口につながる狭《せま》い廊下は、この商会で低くない立場にいるらしいハンスですら、体を真横にして避《さ》けなければならないくらい、忙《いそが》しそうに立ち回る人間たちであふれていた。  行き交《か》うのは、小僧《こぞう》であったり、若い商人であったり、筋骨|隆々《りゅうりゅう》の大男であったり。  狭い廊下を抜《ぬ》け、荷揚げ場に出ると真っ先に鼻を突《つ》いたのは小麦の匂《にお》いだ。春の雪解けの水を利用して挽《ひ》いたものなのか、荷揚げ場全体が白く煙《けむ》っている。大人が一人すっぽりと入りそうな麻袋《あさぶくろ》を抱《かか》えている荷揚げ人足たちは、全員が上半身を汗《あせ》と粉《こな》でまだらにして働いていた。  フルールたちが案内されたのはその一角。まだ粉が降り積もっていない木箱や樽が並んでいて、つい今しがた運ばれてきたことを物語っている。  荷物の前にはすでにさっきのお供の者が控《ひか》えていて、小脇《こわき》に抱《かか》えていた丸められた羊皮紙をさっとハンスに差し出した。  その脇には、木箱を開けるためだろうか、鉤《かぎ》つきの鉄棒が立てかけられている。 「全《すべ》て同じ箱に?」  その質問は供の者に。彼はハンスが話してくれた苦労話をそのまま今体験しているような、鋭《するど》い目つきときびきびした身のこなしの若者だ。  無言でうなずくと、立てかけられていた鉄棒を手に取った。 「では、箱を開けますがよろしいですか?」  そこに不正がないことを確認する言葉。  二人の元貴族からすれば、一時は一生そんな言葉を聞くことなどないと思っていたものだ。  ミルトンが代表してうなずき、ハンスが指示を出す。  一番手前に置かれていた木箱の蓋《ふた》に鉤《かぎ》を引っ掛《か》け、軽く力を入れると蓋がしなって口を少し開ける。すると、若者はいったん鉄棒を外し、今度は腰《こし》に引っ掛けていた同じ形のより小さな物で、釘《くぎ》を引っこ抜《ぬ》き始めた。 「蓋も釘もまた使いますからね。景気の良いところを見せる時は、逆に壊《こわ》したりもします」  ハンスの言葉に二人はただうなずくだけ。何気ない彼らの行動には全《すべ》て意味があるらしい。  見事|綺麗《きれい》に釘を抜いた蓋を持ち、若者は脇《わき》にずれると中のものには触《ふ》れていないと必要以上に示してくる。  ハンスが一つ咳払《せきばら》いをして、丸めた注文書を献上《けんじょう》するように差し出してくる。フルールはそれを受け取り、ミルトンが目だけでうなずき足を前に出す。大きな取引の第一歩。  商人たちがひたすらに走る、あの競争へ参加する最初の取引。  ミルトンは箱の中を見る。  そして。 「え?」  短い言葉は、ミルトンではなくフルールのもの。  箱の中を見たミルトンは、そこに見てはいけないものでもあったかのように体を起こし、ぐるりとこちらを見る。  顔が真っ青だ。  しかし、ミルトンは口を開かずもう一度箱の中を見て、次にこちらを振《ふ》り向いた時にはフルールの手元から注文書をもぎ取っていた。 「どういうことだ?」  地の底を這《は》うような声。  剥《む》き出しの怒《いか》りに、フルールは体をすくませてしまう。  もしもミルトンのその視線の先にフルールがいたとしたら、その場に崩《くず》れ落ちていたかもしれない。 「どう、と仰《おっしゃ》いますと?」 「ふざけるな!」  床《ゆか》に散らばっていた小麦の粉塵《ふんじん》が全て舞《ま》い上がりそうな剣幕《けんまく》だった。  荷揚《にあ》げ人足たちは荒《あら》っぽいし、商人たちは気が急《せ》いている。  多少の怒鳴《どな》り声など誰《だれ》も気に留めはしないが、それにはさすがに荷揚げ場の面々の耳目が一気に集中した。 「ふざけてなど……」  ハンスはそんな中でも、顔色一つ変えず、それどころかどこか馬鹿《ばか》にしている仕草を以《もっ》て、ミルトンをなだめようとする。 「こんなっ……こんな馬鹿《ばか》な注文をっ」  怒《いか》りのあまりか言葉が出ない。握《にぎ》り締《し》められた羊皮紙が、ぎりぎりと音を立てる。 「馬鹿な注文? いいえ、我々は神に誓《ちか》っていかなる過《あやま》ちも犯《おか》しません。ご注文いただいた品を、ご注文いただいた数だけ」  ハンスの懸懃《いんぎん》な返答に、頭に血が上っていたミルトンもなにかおかしいと気がついたらしい。  握り締めている注文書のことを思い出したらしく、力みすぎてうまく動かない手を開き、そこに書かれていることを見る。  その間に、フルールは二歩前に出て、ミルトンの見た箱の中を覗《のぞ》いてみた。  そこにあるのは、闇《やみ》。  そうではない。  そこには、黒を基調とした服ばかりが入っていたのだ。  まるで、フルールたちの未来を暗示するような。 「そんな……馬鹿な……」 「ご注文の品を、ご注文通りに」 「馬鹿な!」  怒鳴《どな》り声は、裏返ってかすれていた。  ミルトンは注文書を取り落とし、ぐらりと視線をハンスに向ける。ハンスはまったく怯《ひる》まない。ミルトンの足がふっと前に出た瞬間《しゅんかん》、二人の間に割って入ったのは、剣《けん》を構えたさっきの若者だ。 「貴族様はすぐに決闘《けっとう》だとわめくそうですが……生憎《あいにく》とわれわれは商人でございます。紙に書かれた約束が全《すべ》て。あなた様も、ご理解いただけていたのでは?」  冷たい視線の、その口元はうっすら笑っているようにすら見える。  フルールは、ミルトンの足元に落ちている注文書に目をやった。  そこには、フルールたちの署名と、フルールたちが書いた注文の品々。  どれも明るい色や柄《がら》のものばかりで、陽気な春の装《よそお》いとしてはきっと最適だろう。  それが、なぜ、こんなものに?  膝《ひざ》を曲げ、紙を拾って、改めて見る。眩暈《めまい》がしたように感じて目をこすったのは、偶然《ぐうぜん》ではない。そこに書かれている色を指定する文字が、あり得ないものに変わっていたからだ。  一本のほんのわずかな短い線をいくつかの文字に足す。それだけで、同じ色の注文の品が、全て黒の注文に変わっていた。  こんなことがあり得るのか。  しかも、銀細工を四つと書かれていたところは、綴《つづ》りのうちの文字の二つに線と点を足され、さらにもう一つが滲《にじ》んで潰《つぶ》れていた。これでは、どう読んだって琥珀《こはく》としか読めない。  目の前が暗くなって額を押さえてしまう。彼らの芸達者は想像の上をいき、倫理《りんり》を平気で蹂躙《じゅうりん》する。オーラーがミルトンとの契約《けいやく》書について奇妙《きみょう》なほど注意を払《はら》っていたのは、こういう事態を避《さ》けるためなのだ。普段《ふだん》使わない単語を使い、綴《つづ》りはきっちりと間違《まちが》えようのないほどにはっきりと書く。  ただ、驚嘆《きょうたん》するのはそんな大胆《だいたん》な書き換《か》えを行うことだけに関してではない。もっとも恐《おそ》ろしいのはハンスの機転の利《き》かせ方だ。  この注文書を見た瞬間《しゅんかん》、書き換えができる、と思ったのだろうが、とっさに注文の品にそのまま署名をさせて、契約書とする。もしも本当に安全を求めるならばもう一枚写しを作るべきなのに、こちらにはそれを考えさせる暇《ひま》も与《あた》えない。  何気なく、さもそれが当然かのように滞《とどこお》りなく署名させ、それを机にしまい込んだあとに見せた、挙句《あげく》の果ての、笑顔《えがお》。  泣ける気すらしない。  化け物。  商人たちは、化け物だった。 「契約は契約」  ハンスが短く言って、ミルトンの前に立ちはだかる若者の肩《かた》に手を載《の》せる。 「では、代金を」  忠実な僕《しもべ》は、主人のために分厚い台帳と羽根ペンを差し出したのだった。  蝋燭《ろうそく》は消えかける瞬間が最も光り輝《かがや》くもの。  その言葉を示すかのように、激昂《げきこう》したミルトンは意気|消沈《しょうちん》し、荷揚《にあ》げ場から荷物を運び出す間、一言も口を開かなかった。  ジョンズ商会の人間に手を借りるのも癪《しゃく》ではあったが、フルール一人では時間ばかりかかってしまってどうしようもない。  荷揚げ人足の一人に手伝ってもらい、なんとか一頭の騾馬《ラバ》の上に全《すべ》ての荷物を載せ終えた。  ただし、フルールは礼の言葉を発する代わりに、彼には数枚の銅貨を握《にぎ》らせておいた。 「どうも」  と短くでも礼を言ったのは、向こうのほう。  自分が何事も金で解決する卑《いや》しい商人になってしまったような、そんな苦い気持ちが口の中|一杯《いっぱい》に広がっている。  しかし、本当に卑しい商人であれば、あんな手口に引っ掛《か》かって財産のほとんどをごみに変えたりはしない。  そう。ミルトンがずっとぼんやりとしているのは、引き渡《わた》された服のほとんどがごみだからだ。そう言って悪ければ、適正な値段で売れはするのだろうが、フルールが支|払《はら》った金額からすれば取るに足りない値段でしか売れない商品、とでもいうのだろうか。  当然ジョンズ商会はその分、売れ行きの悪い地味で暗い色の服を高値で売りつけて大|儲《もう》けをする。あとに残るのは、未来を暗示するかのような暗い服と、抜《ぬ》け殻《がら》のようなミルトン。  そして、ミルトンとの間に交《か》わされた契約《けいやく》書だけだった。 「……服」  道すがら、フルールが沈黙《ちんもく》に耐《た》えきれずその単語を口にする。  ミルトンはこちらを見ないが、体が強張《こわば》ったのがよくわかる。 「暗い色ばかりではない……じゃないか」  それがただの気休めにしかならないのはわかっていても、絶望するほどのことではない。  そう言いたくて口にした言葉だったが、ミルトンは後ろをのろのろと歩く騾馬《ラバ》を振《ふ》り返り、こちらを見て疲《つか》れた笑《え》みの形に唇《くちびる》をつり上げた。 「銀細工が琥珀《こはく》に変わったように、希望はゴミに変わった」 「そんなこと」  ない、と言おうとして、口ごもってしまう。  ミルトンは笑う。怒《おこ》ったように笑い、頭を振る。  貴族たちに服を売りつける術《すべ》に長《た》けたミルトンには、いかにこの積荷《つみに》が金にならないのかわかりすぎるほどにわかるのかもしれない。  フルールがまだしも気丈《きじょう》に振《ふ》る舞《ま》えているのは、現実がわからないからともいえる。 「……どのくらいで、売れそうなんだ?」  まさかゼロということはないだろう。  七割か、さもなくば。 「……」  ミルトンは無言で手を開く。  指は四本。  四割、ということだろう。 「いくつかはまともな価値を持っていても、残りは本当に屑《くず》同然……質の悪い品ではなくても、あんな暗い色、葬式《そうしき》でもなければ売れはしない」  自暴自棄《じぼうじき》な笑みのまま喋《しゃべ》ると、人の唇の端《はし》は醜《みにく》く震《ふる》える。  元夫の最期《さいご》を見ているようだとフルールは思う。  ただ、あの時と違《ちが》うのは、フルールは目の前の男を憎《にく》からず思っていることだ。 「だが、四割もあるなら上等じゃないか。四回で倍になる儲《もう》けの取引を四回やれば元に戻《もど》る」  フルールの言葉に、ミルトンはきょとんとする。  そして、なにかを言おうとして口を閉じ、堪《こら》えきれないように言った。 「馬鹿《ばか》な」  もどかしさに歪《ゆが》められた顔は、ミルトン自身自分の気持ちを言葉にする術《すべ》を持たないかのようだ。言われたフルールも、その短い一言がなにを意味するのかわからない。  ミルトンはなおもなにかを言おうとして、結局|諦《あきら》めたらしい。  フルールが声をかけるのも間に合わず、顔を背《そむ》けると道をそれてしまった。 「ミル……」  町の喧騒《けんそう》にかき消されるくらいの声は、当然ミルトンを止めること叶《かな》わず、その姿はあっという間に見えなくなってしまう。あとに残されたのはフルール一人と、仕入れ値の四割にしかならないと宣告された荷物。さらに、それを背負った一頭の騾馬《ラバ》。  大損をしたということよりも、ハンスにいいように騙《だま》されたことよりも、そっちのほうがよほど辛《つら》いことだった。  フルールは騾馬の綱《つな》を引き、とぼとぼと家に帰る。  オーラーがどんな顔をしていたかは、はっきりと覚えていなかった。 「どうしようもありませんな」  翌朝、全《すべ》てが夢であったらいいのにと願いながら、雨模様の中庭を眺《なが》めつつ一階に下りると、テーブルにいたオーラーが振《ふ》り向きもせず言った。  言葉のあとにようやくこちらを振り向いて、薄暗《うすぐら》いながらにその手には小さな硝子《ガラス》が持たれているのがわかった。  オーラーが、昔勤めていた商会の崩壊《ほうかい》から唯一《ゆいいつ》救い出したのが、その小さな眼鏡だ。  おそらく、フルールがハンスから渡《わた》された注文書に、どうにかして突破口《とっぱこう》を見つけようとしていたのだろう。  テーブルの上を見れば、溶《と》けきった蝋《ろう》が燭台《しょくだい》の上で焦《こ》げていた。 「どうしようもありません。まったく、良い腕《うで》でございます」  嘆息《たんそく》まじりのその言葉は、まったく怒《いか》りも呆《あき》れもしていない。  ただ単に疲《つか》れたといった体《てい》のそれは、なによりもフルールの心を苛《さいな》んでいく。 「すまない」  堪《こら》えきれずに、昨晩何度口にしたかわからない言葉を呟《つぶや》く。  しかし、オーラーは目を細めるだけでなにも言いはしない。  ちょうどベルトラが温めた羊の乳を持ってきたところで、ひとまず座るように促《うなが》された。 「服の価値は、私の目算では五割。まあ、ポースト家の方の見立てのほうがおそらく正しいのでしょう。私も昨今《さっこん》の詳《くわ》しい相場はわかりませんからね……。しかし、よくもまあこんな服を連中は倉庫に溜《た》め込んでおいたものだと、逆に感心してしまいます。確かに以前は暗い色が流行した時期もございましたが……」  とは、テーブル脇《わき》に置かれた箱の中身を指して。  こんな服は葬式《そうしき》でもなければ売れはしない、というミルトンの言葉が蘇《よみがえ》る。 「まあ、幸いお嬢様《じょうさま》はこれらを借金して買われたわけではありません。利子に追われることも、即座《そくざ》に破産することもございません。売れる服はきちんと売れるでしょうから、それらをお金に換《か》えて……残念でしょうが、しばらくは手間賃仕事に甘んじるほかありませんな」  オーラーの淡々《たんたん》とした言葉に、フルールはこく、こく、とうなずいていく。  ベルトラが自分で彫《ほ》ったという木のカップには、はちみつを入れて温めた羊の乳がなみなみと注がれている。  ここで自分がするべきことは、泣くことでも、謝ることでもない、とわかってはいても、顔を上げることができない。するべきことは、顔を上げて高々と宣言することだ。  次は絶対に失敗しない。必ず。必ず。  しかし、威勢《いせい》のいい、諦《あきら》めの悪い立派な商人の声はいつまでも聞こえてこず、部屋には外の雨だれの音だけが空しく響《ひび》いていた。  押しては引く晩餐《ばんさん》会の駆《か》け引《ひ》きのごとく、人を油断させ、信用を得て、それを巧《たく》みに利用して足元をすくっていく商人たち。そんな商人たちの、本当の世界を垣間見《かいまみ》た。  人の気持ちなど歯牙《しが》にもかけず、それが金になるとわかれば平然と、最適な手段で、最高の頃合《ころあい》で、最大の効果が出るようにと行動に移す。  どんな稼《かせ》ぎ方をしようとも、お金はお金でございます。  オーラーならそう言うだろう。  そして、それこそが真実なのだろう。 「……ごめん」  羊の乳の入ったカップを両手で持って、その中に溺《おぼ》れてしまいたい気持ちで、呟《つぶや》いた。  オーラーは動かない。  代わりにベルトラが動こうとしたのを、オーラーが手で制したのがわかった。 「しばらく休まれることですな。……ベルトラさん」  オーラーはベルトラの名を呼んで、服の入った木箱を倉庫に運ばせた。オーラーは、雨漏《あまも》りの様子を見てくると言って席を外す。  そして、一人になった。  外は相変わらずの雨で、一人でじっとしているとうるさいくらいの雨音だ。だから、もう一つや二つ滴《しずく》の落ちる音が増えたってばれやしない。  自分自身の言い訳すらが情けなくて、フルールはカップを抱《だ》くようにして泣いた。悔《くや》しさもあったし、自分の不甲斐《ふがい》なさもあった。それでも一番の理由は、この先あんな連中を相手に商《あきな》いをしていかなければならないのかという恐怖《きょうふ》だった。  できない。とてもできない。  オーラーに、ベルトラに、はっきりとそう言ってしまいたかった。  ただ、ではその先どうするのか、フルールには考えがなにもない。行くも地獄《じごく》、戻《もど》るも地獄。  誰《だれ》かに助けてもらいたい。そのためになら、なんだってする。  フルールが、神の名を呼んだ、その直後だった。 「っ?」  ばっと顔を上げたのは、ベルトラやオーラーが戻ってきたからではない。  妙《みょう》な音がしたからだ。  雨の日は殊更《ことさら》鼠《ネズミ》だの猫《ネコ》だのが家の中に迷い込んでくるので、それらの音だろうかと思ったのもつかの間、再び音が聞こえてくる。  扉《とびら》を叩《たた》く音。  来客だ。 「っ」  顔を乱暴に袖《そで》で拭《ぬぐ》い、近くにあった手ぬぐいで鼻を力|一杯《いっぱい》にかんだ。  こんな雨の日に来客など限られている。  だとしたら、それは一人しかいない。  向こうもまた同じように傷つき、恐《おそ》れ、不安を抱《いだ》いているであろう人物だ。  フルールは椅子《いす》から立ち上がる。一人なら無理でも、二人でなら。  その期待にすがるように扉に手をかけ、かんぬきを抜《ぬ》いて開ける。途端《とたん》に顔に当たる水しぶきに目を細めたせいだと思った。  扉の先にいた人物が、一瞬《いっしゅん》誰《だれ》だかわからなかったのは。 「お話を、よろしいですかな?」  そう言われ、呆《ほう》けたように返事ができなかった。  それも当然だ。  そこにいたのはミルトンではない。  自分たちをこんな目に遭《あ》わせた張本人、ハンスその人だったのだから! 「貴女《あなた》と彼《か》のポースト氏。まさか、出資に際して契約《けいやく》書を交《か》わしておられない、というわけではございませんよね?」  癇《しゃく》に障《さわ》る、蛇《ヘビ》がゆっくりと獲物《えもの》に巻きつくような話の仕方。  その嫌悪《けんお》感からか、「だから?」という言葉は胃の中身を吐《は》き出すかのように、低くしゃがれた声だった。 「ポースト氏に資産はなかった。だとすれば貴女が資金を出し、彼は販売を請《う》け負ったはず」  なめし革《がわ》で造られた一級品の雨具はよく水を弾《はじ》いている。  ハンスは、修道士の被《かぶ》るようなフードの下から、油に濡《ぬ》れたような目を向けてくる。 「……だ、だから?」  ハンスの有様《ありさま》が不気味だったこともある。  ただ、フルールの言葉がかすれ、つっかえてしまったのは、ハンスの目的がまったくわからないからだ。  自分たちの有り金を巻き上げ、商品としては屑《くず》同然の商品を売りつけたのだからもはや用はないはずなのに、どうしてハンス一人でこんな雨の中をやってきて、こんな話をするのだろうか。  フルールの本音としては、もう、二度とハンスの顔など見たくない。それどころか、彼の視界の中にすら入りたくはない。  それでも、ハンスはじっとフルールのことを見つめてくる。獲物《えもの》を逃《に》がさない、蛇《ヘビ》のような目で。 「その際に貴女《あなた》が危険を全《すべ》て負ったとは考えられない。彼にも幾分《いくぶん》かの責任を負わせたはず。それは、如何《いか》ほど? 十五割? 二十割?」  扉《とびら》を掴《つか》んだままの手が震《ふる》えたのは、寒さのせいではない。  怒《いか》りに手が震え、喉《のど》から搾《しぼ》り出すように、答えていた。 「お前たちと一緒《いっしょ》にするな。私はそんな卑《いや》しいことはしない」 「では如何ほど?」  怯《ひる》まないハンスに眩暈《めまい》がするほどの怒りを覚える。 「五割。彼を信用していたからだ」  なんとか理性を保ったまま答えた直後、ハンスは軽く口をすぼめて首をかしげた。 「それはそれは。だとしたら、貴女様はだいぶ損をされたはずだ」  我慢《がまん》にも限界がある。  目の前が真っ赤になって、あふれた分を力の限りに怒声《どせい》に変えようと息を吸い込んだ直後、全《すべ》ての頃合《ころあい》を見計らっていたかのように、ハンスがずいと一歩前に出て、言葉を滑《すべ》り込ませてきた。 「貴女様とポースト氏の契約《けいやく》書を、貴女様の支|払《はら》った仕入れ値で買わせていただけませんか」  頭の中が真っ白になった。 「え?」 「よくあることですよ。債権《さいけん》の譲渡《じょうと》です。貴女様が利子を取ろうと取るまいと、ボースト氏が貴女様に借金しているのは間違《まちが》いのないこと。私はそれを、買い取りたいのです。貴女様がほんのわずかの損もしない値段でね」  噛《か》んで含《ふく》めるような説明に、呆《ほう》けた頭でもすんなりと理解できた。  そうすれば、ハンスがなにを考えているのか、それどころか、なにを考えていたのかまで芋《いも》づる式に理解できた。  こいつらの全《すべ》ての計画は、ここにつながっていたのだと。  最初からこれが目的。  ミルトンへの債権《さいけん》を手に入れる。  優秀な服の販売《はんばい》術を持つ、ミルトンの首に首輪をかけるために。 「なんなら、色をつけてもよろしい。なにせ、これから先も、貴女《あなた》様は生きていかなければならない。その、甘さでね」  べろり、と首筋をなめられたと、一瞬《いっしゅん》錯覚《さっかく》してしまったくらいだ。 「いっそ嫁資《かし》をつくってどこかに嫁《とつ》がれてはいかがですか。私は喜んでそのお手伝いを——」  人を殴《なぐ》ったのは、これが初めてだった。 「……左様でございますか」  ハンスは唇《くちびる》を手で拭《ぬぐ》い、血を確認《かくにん》して、数瞬の間目を閉じる。 「堕《お》ちるところまで堕ちたら、その手で当商会の門を叩《たた》きなさい。悪いようにはしませんから」  妙《みょう》に赤い舌で自分の血をなめるハンスの言葉は、野卑《やひ》な視線を持って。 「では、失礼」  軽く身を翻《ひるがえ》し、雨の中再び歩き出したハンスは、ふとこちらを振《ふ》り返ってこう言葉を続けた。 「気が変わったらいつでも遠慮《えんりょ》なく」  商人。  怒《いか》りはとうにどこかに行って、胸の内にはその単語しかなかった。  商人。  彼らは非情なまでに利益しか見ていない。  その先になにがあるのか?  どうしてそこまでできるのか?  人気のない雨の道を、軽い足取りで帰っていくハンスを見送りながら、フルールは呆《ほう》けたままそんなことを思っていた。  訳がわからない。  同じ人間とは思えない。  フルールはその場に崩《くず》れ落ち、音を聞いてやってきたのか、ベルトラが短い悲鳴を上げて駆《か》け寄ってくるのがわかった。  オーラーの名を呼んでいるらしいのもわかるが、フルールはばんやりと水溜《た》まりに降る雨を見つめていた。泣きたくて、どうしようもなくて、ベルトラが手を貸してくれてようやく立ち上がると、フルールはふらふらと雨の中に出てしまう。  階上から何事かと下りてきたオーラーのほうを向いていたベルトラが、慌《あわ》てて引き戻《もど》そうとする。  損得が関《かか》わると、人は変わる。  雨の道に出たフルールは、雨脚《あまあし》の強くなった中、奇妙《きみょう》な光景を見る。  この雨だというのに、家のすぐ隣《となり》の路地から、一台の荷馬車が道に出てきた。  御者《ぎょしゃ》は顎《あご》まで隠《かく》すようなフードをすっぽりと被《かぶ》り、だというのに荷はどこかぞんざいに積まれている。  まるで、慌《あわ》てて積んできたかのような。  その瞬間《しゅんかん》、フルールは声を荒《あら》げて叫《さけ》んでいた。 「ミルトン!!」  雨と涙《なみだ》で視界がぼやけていても、御者台の上の人物が凍《こお》りついたのは十分にわかった。  荷馬車は速度を上げ、雨の中を走っていく。 「ミルトン!」  叫んでも、おそらく二度目以降は声にならなかった。  家から出てきたオーラーに、羽交《はが》い締《じ》めにされて家の中に達れ戻《もど》されたからだ。 「ミルトンが……ミルトンが」  うわごとのように呟《つぶや》きながらも、耳にははっきりとオーラーとベルトラのやり取りが届いている。  倉庫を確認《かくにん》しろ。扉《とびら》が破られている。  倉庫にあった服が、ほとんどない。 「お嬢様《じょうさま》」  気がついたら、オーラーの真剣《しんけん》な顔が目の前にあった。 「なにがあったのです」  顔をオーラーの手がしっかりと挟《はさ》み、そこから逃《に》げることも首を横に振《ふ》ることも叶《かな》わない。  気絶してくれと願って目を閉じる。  しかし、現実は変わらない。 「お嬢様」  叱《しか》られた子供のように、泣きながら、答えた。  オーラーはそれを、心|優《やさ》しい神父のように聞き届ける。 「ジョンズ商会の者が? ならば……服を盗《と》ったのは……」  フルールはうなずく。勘違《かんちが》いではないはずだ。  ミルトンはきっと、自分たちが嵌《は》められたとわかった直後に、すでにハンスの目的に気がついていたのだろう。  そして、服を盗《ぬす》む機会を窺《うかが》っていたに違いない。  服の価値はうまくいけば五割。  ならば、それを盗み、売れば、晴れて自分の分の借金を消すことができる。  フルールは、奥歯を噛《か》み締《し》めて目を閉じた。ミルトンは、フルールを信じてはくれなかったのだ。もしもフルールを信じていれば、フルールに借金を負っていたところで服を盗《ぬす》む必要などまるでない。フルールは損を責めることも、借金を無理に取り立てることも、あまつさえ債権《さいけん》を高値で誰《だれ》かに売ることなど考えもしなかった。  損得が関《かか》わると、人は変わる。  自分だけは変わらないと信じて欲しかった。  しかし、ミルトンは信じてくれなかった。 「お嬢様《じょうさま》」  オーラーの声に目が開くのは、ほとんど訓練された犬の反応に近い。  あるいは、その声がいつも自分の困難の時には支えになったからかもしれない。  ただ、今、そこにあるのは、自分を安全なところにまで導いてくれたオーラーの顔ではない。  険しい顔つきの、一人の老人がそこにいた。 「お嬢様。ご決断ください」  泣くことすら忘れて、聞き返した。 「決……断?」 「左様でございます。このままむしられ、盗《と》られ、足蹴《あしげ》にされ、泥《どろ》にまみれたまま生きていくのか、さもなくば自らの力で立ち、歩いて進んでいくのか」  それがなにを意味するのかはわかる。  このまま商人を続けるのならば、服を取り返せということだ。 「お嬢様《じょうさま》!」  オーラーが怒鳴《どな》ったのは、顔を背《そむ》けようとしたからだ。  叱《しか》られた犬は、怯《おび》えながらも視線をそらせない。 「お嬢様。私がお嬢様を商人の世界に連れ出したのは、お嬢様が哀《あわ》れだったからでございます。ただそこにいるのが役目でありながら、そのせいで、流され、堕《お》ちるに任せるほかなかったお嬢様が。私はお嬢様に機会を差し上げたい。一人で立ち、歩くその機会を」  オーラーは言って、それから大きく深呼吸をすると、頭を振《ふ》って、言葉を続けた。 「いいえ、ここで気持ちを偽《いつわ》ってもどうにもなりますまい。本音を言えば、お嬢様には見返していただきたかった」 「……え?」 「私は、お嬢様の旦那《だんな》様の下《もと》で働く前も、名の知れた商会におりました。ですが、さらにその前は、私も貴族の端《はし》くれだったのでございますよ」  その言葉に全《すべ》てが止まり、自分の心臓すら止まってしまったとフルールは思った。 「いつか全ての商人を追い越《こ》して、血の尊さに従い正しく彼らをひざまずかせてみせると」  人の目を見ないで話すオーラーは、ひどく年老いて見えた。 「それが気がつけばこの歳《とし》でございます。もはや金の玉座に着くことは叶《かな》いますまい。挙句《あげく》、我が主《あるじ》と頂いた人物すら破産する始末。私は子を生《な》しませんでしたからな。自分の夢を……身勝手なことではございますが、お嬢様に託《たく》したかったのです」  肩《かた》に毛布が掛《か》けられ、ベルトラは罪の告白をするように苦しげに語るオーラーにも、その手をそっと添《そ》えた。 「全ては私のわがままでございました」  突然《とつぜん》のことに、フルールはどう反応していいのかわからない。  目を泳がせているうちに、オーラーは一つ大きく息を吸って、立ち上がる。 「ベルトラさん、幾《いく》ばくかの現金を。それと、外套《がいとう》に……」  フルールが弾《はじ》かれたように顔を上げたのは、オーラーがなにをするかわかったからだ。 「私の命ある限り、お嬢様に苦労はさせません。無理|強《じ》いをした罪|滅《ほろ》ぼしとしていただければ」  フルールは自分の顔が泣き顔に歪《ゆが》んでいくのを止められない。  そんな言葉を甘んじて受け入れたら、自分は本当にただそこにいることだけが役目の人形になってしまう。  以前はまだしも守るべき家名があった。  それがなくなった今、もしも自分の足で立たなかったのだとしたら、自分は一体なにになってしまうのだろうか。  そう考えると怖《こわ》くて、立ち上がったオーラーの足を掴《つか》んでいた。  どちらにも決断はできない。さりとて、どちらでもないのもまた恐《おそ》ろしい。 「お嬢様《じょうさま》」  聞いたことのないくらいに優《やさ》しいオーラーの声。  ゆっくりとしゃがんだオーラーは、フルールの手を優しく掴《つか》み、一本一本、指を解いていった。 「わがままを仰《おっしゃ》らないでください」  そして、胸中の全《すべ》てを見|透《す》かしたその言葉に、フルールは弾《はじ》かれたように手を引っ込めた。 「……」  オーラーは無言でこちらを見て、ため息をつく。  フルールはその瞬間《しゅんかん》、一つのことを悟《さと》った。  慈愛《じあい》に満ちた目と、軽蔑《けいべつ》に満ちた目は、本当に薄《うす》い紙一枚で隔《へだ》てられたものなのだと。  なぜなら、相手に優しく手を差し伸《の》べるのは、その相手のことをなにもできない弱い者だと認めるからだ。  フルールは、怒鳴《どな》り返していた。 「馬鹿《ばか》にするな!」  眉《まゆ》一つ動かさないオーラーを睨《にら》みつけたまま、立ち上がってさらに怒鳴る。 「馬鹿にするな! 私はもううんざりだ! 流されるままに生きていくのはうんざりだ! お前の夢? 馬鹿にするな! 私はお前の子供ではない! 私の行く先は私が決める! もう帰る場所なんてないのだから!」  わめき散らして、思うままを怒鳴りつけて、肩《かた》で息をしながらオーラーを睨む。  オーラーにあのまますがりつき、ただ守ってもらうという選択肢《せんたくし》が魅力《みりょく》的だったのは事実だ。  しかし、フルールだって簡単に気がつくことができる。  今はいい。  では、オーラーが死んだそのあとは?  世の中は無慈悲《むじひ》で、人は不親切で、損得が絡《から》めば信用すら裏切りに変わる。  柔《やわ》らかな布に包《くる》まれた、日の当たる午後の昼寝《ひるね》のような毎日はもうどこにもない。  それでも、人は皆《みな》生きていかなければならない。 「では、どうされるのですか?」  落ち着き払《はら》ったオーラーの声、目、顔。  フルールは、勝手に顔が笑うのも止めず、言った。 「取り戻《もど》しに行く」 「なにを?」 「服をだ。いや……」  顔をうつむかせ、呼吸を整えてから、オーラーを見る。 「覚悟《かくご》を。ベルトラ」  フルールはベルトラを振《ふ》り向き、事の成り行きにまごまごしていた彼女に指示を出す。 「ありったけの現金と、私の外套《がいとう》。それに、剣《けん》だ」  良き使用人は、名のある誰《だれ》かである前に使用人であるべきだ。  ベルトラは指示を与《あた》えられた途端《とたん》にいつもの調子を取り戻《もど》し、すぐにうなずいて動き始めた。 「お嬢様《じょうさま》」 「お嬢様はやめろと言ったはずだ」  フルールはオーラーの言葉を切って捨て、ほんのわずかのためらいもなく睨《にら》みつけた。 「取り返す。向こうが荷馬車なら、馬を使えば十分すぎるほどに間に合うだろう。行く先は概《おおむ》ね見当がついている。貴族の屋敷《やしき》に続く道は少ない」  オーラーは一切《いっさい》異論を挟《はさ》まないし、眉《まゆ》一つ動かさない。  ただ、その視線の意味はわかっている。 「よろしいのですか?」  だから、その質問を、意味不明のものだとは思わなかった。 「構わない。私は商人になる。その覚悟を取り戻す」  たたんだ外套の上に、本当にありったけの現金であることを示す、不揃《ふぞろ》いの貨幣《かへい》と短剣が載《の》っている。  ベルトラの差し出してくれたそれを、短い礼と共に受け取った。 「できればベッドで震《ふる》えていたい。行くも戻るもままならず、全《すべ》てを夢だと信じ込んで震えていたい。だが、お前が死ねばきっと私は路頭に迷い、まずベルトラが、次いで私が行くことになるだろうね」  首をかしげて、皮肉げに唇《くちびる》の片方をつり上げる。 「あのジョンズ商会に。私なら、きっといい稼《かせ》ぎが出るだろう」  貴族の血など、実際のところ尊くなどない。  金がなければ、その程度の値打ちしかない。 「なら、前に進むしかない。それに、私は知っている」 「なにを……でございますか?」 「何ものも信じない商人が、心の安らぎすら金に換《か》えるような商人たちが、利益の先に期待していることを」  オーラーが目を見開き、ぐっと顎《あご》を引く。  気がついてはいけない宝物を見つけた子供を見る親のよう、と言ったらいいすぎだろうか。  フルールは一人笑いながら、外套を羽織り、短剣を腰《こし》に差す。  頭巾《ずきん》を巻くその動作に、心臓が痛いくらいに高鳴っていく。 「心安らかに暮らせるなにかがそこに待っているのなら、私はそれを追いかけよう。オーラー」 「はい」  忠実な教育係|兼帳簿《けんちょうぼ》係は、背筋を伸《の》ばして返事をした。 「手伝って欲しい。もう、迷惑《めいわく》はかけない」 「畏《かしこ》まりました」 「ベルトラ」  フルールは、頭巾《ずきん》を縛《しば》って、言った。 「行ってくる」  馬屋の横面《よこつら》に現金を叩《たた》きつけ、馬を借り受け雨の中飛び出した。  ミルトンが服を盗《ぬす》み売ってしまえば、きっと彼との関係は永遠にそこで途切《とぎ》れるだろう。残されるのはミルトンが売れないと見限った屑《くず》同然の服と、大損だけ。彼を捕《と》らえて服を取り返し、その上で処過《しょぐう》を検討《けんとう》する。  目下の案はそれしかない。  なんにせよ、追いつき服を取り返すことが先決だ。 「オーラー、剣《けん》は!?」  雨の音と馬蹄《ばてい》の音にかき消されそうになりながらも、フルールは叫《さけ》ぶように聞く。  もちろん、その質問が、単純に剣を持ってきたかどうか、などという意味ではない。 「お嬢様《じょうさま》が見た時に、相手は一人だったのでございましょう? ならば問題ございません!」  元夫は非道に生きる商人だった。  荒事《あらごと》の一回や二回、必ずあったはず。  そこで帳簿を預かる身となれば、そこいらへんのごろつきよりもよほど頼《たよ》りになるはずだ。 「それより道は大丈夫《だいじょうぶ》なのでございますか!」 「ミルトンの話に出てくる貴族は概《おおむ》ね決まっていた! 慌《あわ》てて服を売りにいく相手が初めてのところとは思えない! ならば道はここしかない!」  道がぬかるみ、何度も馬が体勢を崩《くず》しそうになる。  馬の扱《あつか》いを覚えたとはいっても、通《とお》り一遍《いっぺん》を習ってのんびり荷物を運ぶ程度だ。  しかし、ほとんど馬にしがみつくように、手綱《たづな》捌《さば》きなど関係なく、馬に直接|祈《いの》るように無我夢中に雨の中を駆《か》けていく。  胸中にあるのは怒《いか》りではない。恨《うら》みでもない。  ではなんだろうか。  フルールは自問して、答えを出す。  おそらくは寂《さび》しさ。  きっと、底しれぬ、寂しさだ。 「お嬢様《じょうさま》!」  雨で道が崩《くず》れたのか。  大きくえぐれた穴に馬がすんでのところで足を取られそうになった。  それをかわしたのは技術でもなんでもなく、本当に単なる幸運だったのだろう。  馬が宙を飛ぶ間、しがみついた馬の背から、地獄《じごく》につながる口のような泥《どろ》の水溜《た》まりが見えた。 「お嬢様!」  馬が止まり、ほとんど背からずり落ちそうになっていた体を立てなおそうと必死にもがく。  恥《は》ずかしさと悔《くや》しさがあいまって、いつもの呼び名に余計に腹が立つ。 「お嬢様と——」  顔を上げて怒鳴《どな》り返そうとしたその瞬間《しゅんかん》、オーラーの様子に気がついた。 「オーラー?」  降りしきる雨に、視界は煙《けむ》っている。  道は泥だらけで、沼《ぬま》の中と言われてもわからないだろう。  馬が白い息を吐《は》いても、数瞬《すうしゅん》のうちに雨に流される。  そんな中、オーラーが、あらぬ方向を向いたまま、馬を止めていた。 「お嬢様、あれを」  フルールは手綱《たづな》を引き、馬をそちらに向ける。  そして、オーラーの横に立って、ようやく全《すべ》てを理解した。  視界は悪く、ぬかるんだ雨の日の道。  奇跡《きせき》が起こらなかったらどうなっていたか。  その見本が、そこにあった。 「この穴は、あれが原因か」 「そのようでございますな」  道に開いた大きな穴は、なにかでえぐったようにも見える。それこそ、曲がりきれなかった荷馬車が悲鳴のような軋《きし》み音を立てながらえぐったように。  フルールは馬を下りて、道の端《はし》に歩み寄る。その先は急な坂になっており、少し下りていくと小川がある。雨のせいで水量が増えた小川は泥水色になっていて、その小川と坂の間。  そこには、車輪が片方取れた宿馬車と、仰向《あおむ》けになったままピクリとも動かない馬。  フルールが家の前で見た、あの荷馬車が、そこにはあった。 「お嬢様」  その呼びかけになにか意志があったとは思えない。多分、声をかけないわけにもいかない、と思ったのだろう。  フルールは頭巾《ずきん》を取ると、坂を注意深く下りていった。  辺りは草がわずかに生えるだけで、この雨ならば足跡《あしあと》はすぐにわかるがミルトンのそれはない。だとすれば、この事故に巻き込まれて気絶をしているのか、さもなくば。  一歩、また一歩と近づいていく。  冷たい雨の降りしきる中、フルールはあと三歩というところで、それに気がついた。  車輪が片方、勢い余って地面に食い込んでいる。  その、荷馬車の下敷《したじ》きになっている一人の男。  泥《どろ》と血にまみれた顔は、一見すると、眠《ねむ》そうにも見えた。 「……追いつか……れたか」  白い息がまだ上がり、生命の証《あかし》と共に出てきた言葉はそんな気丈《きじょう》なものだ。  フルールは最後の三歩を埋《う》めて、ミルトンの前に立つ。 「……虫がよすぎる……とは自分でも、お、思っているが……」  左|腕《うで》は半分ちぎれかけている。  ミルトンは残る右腕を懸命《けんめい》に伸《の》ばしながら、言葉の続きを搾《しぼ》り出す。 「助けて、くれ」  どう見ても助かるとは思えない。  自分自身、助かるとは思っていないふうだった。  それでも、人間|往生際《おうじょうぎわ》は悪いらしい。  ミルトンの言葉に嘘《うそ》が含《ふく》まれているともまた、思えなかった。 「出来……心だった……しゃ、借金のこと、話しただろう?」  笑顔《えがお》は、泣き顔だったのかもしれない。  フルールがしゃがみ、ミルトンの頬《ほお》に手を当てると、顔を伝う水は温かかった。 「怖《こわ》かった……だから……」  フルールは、ちらりとミルトンの胸から下を見る。  荷馬車の下敷きになっているそれは、もしかしたら雨で緩《ゆる》んだ地面のお陰《かげ》で無事なのかもしれない。  自分の足を掴《つか》むミルトンの手も、思いのほか力がある。  左腕をすぐに縛《しば》って止血して、積荷《つみに》の服で保温をして、荷馬車をどける間にオーラーに人を呼ばせれば助かるかもしれない。 「次は、絶対に、裏切らない。だから……」 「助けてくれ、と?」  聞き返すと、初めてフルールが口を開いたことに光明《こうみょう》を見出《みいだ》したのかもしれない。  ミルトンの顔がはっきりと笑顔になった。 「頼《たの》……む。頼む」  懇願《こんがん》され、フルールは目を閉じる。  ミルトンの手に、さらに力が込められた。 「同じ、貴族じゃないか」  そして、目を開いた時、フルールはミルトンのことを見ていなかった。 「……フルール?」  訝《いぶか》しげに名を呼ぶミルトンを無視して、フルールはおもむろに手を伸《の》ばした。  吹《ふ》き飛んでいった車輪の破片か、あるいは固定していたどこかの部品か。  折れた木が、地面に突《つ》き刺《さ》さっていた。 「フル……」  ミルトンの声が消え入り、目だけがこちらに向けられる。 「オーラー」  フルールはその名を呼んで、坂を下りてきていた忠実な僕《しもベ》に言葉を向ける。 「積荷《つみに》は?」 「無事でございます。中身は問題ありません。泥《どろ》に落ちたら一巻の終わりでしたな」 「そうか」  積荷が無事。  ならば自分も助けてもらえるのでは。  普通《ふつう》ならばそう考えるだろうし、ミルトンも笑顔《えがお》になった。  だが、その笑顔が本当の笑顔でないことはわかりすぎるほどにわかる。  なぜなら、フルールの手には、地面から引き抜《ぬ》いた、先の鋭《するど》く尖《とが》った木が握《にぎ》られているのだから。 「あなた自身が言った言葉」  独白《どくはく》のような一言に、疲《つか》れたといわんばかりに空を向いたミルトンが続けた。 「黒い服は……葬式《そうしき》でもなければ、売れ……はしない」  賢《かしこ》い男。  フルールは、大きく息を吸う。 「綺麗《きれい》な顔だと思ったのは……なるほど……そ、そういうことだったのか」  かは、かは、と喘《あえ》ぐように笑い、実際に喘いでいるのだろう。  顔は泥と寒さと、おそらくは出血で、粘土《ねんど》のような色になっている。  視線は空に向けられている。  もう間もなく向かうであろう、次の住処《すみか》に向けて。 「そうか……はは……」  ミルトンは疲れたような笑い声を上げ、そして、ふと目を閉じると、がばっと顔を起こすや満面の笑顔でこう言った。 「く、くそ! 死に損《ぞこ》ないの演技が、ばっばれちまったようだ!」  演技で顔色まで変えられるわけがない。  それでも、フルールは怯《ひる》んでしまった。  ミルトンの思惑《おもわく》に気がついたからだ。 「俺は、お前を騙《だま》すのに、た、ためらいなどない! 貴族の甘さが抜《ぬ》けないお前に、商《あきな》いなど無理だ! 人を騙すことに良心の呵責《かしゃく》もなく、喜びさえ覚え、神をも恐《おそ》れぬ——」  ミルトンの言葉が途切《とぎ》れたのは、フルールがその体に覆《おお》い被《かぶ》さるようになったから。  だが、ミルトンの目は、まだ動いていた。  躊躇《ちゅうちょ》した。  死《し》に体《たい》のその体に、木を突《つ》き立てるのを。 「おい」  ミルトンの言葉に、フルールはびくりと体をすくませる。 「……お前が殺す前に、死んじまうぜ」  優《やさ》しい顔で言われたその台詞《せりふ》で、フルールは体重をかけた。  ずぶり、と木が沈《しず》む感触《かんしょく》を、きっと一生忘れないだろう。 「……そう。それでいい……」  口|一杯《いっぱい》に血の味が広がる。  ミルトンが、震《ふる》える手を、こちらの手に重ねてきた。 「血も涙《なみだ》もない、良き商人に……」  実際は、血泡《けっぽう》の弾《はじ》ける音だったのかもしれない。  フルールはじっとそのままの姿勢でいた。  どれくらいかはわからない。  起き上がる時、体が別人のもののようだった。 「オーラー」  短く言うと、即座《そくざ》に返事がくる。 「はい」 「積荷《つみに》を馬にくくりつけろ。そして、家に帰り次第《しだい》、即座に残りの黒い服と、琥珀《こはく》の細工物の出荷の準備をしろ」 「はい」  フルールは、自分の手についた血を眺《なが》めてから、最後の指示を出す。 「家を追い出されたとはいえ、貴族の子弟が『事故』で死んだ。葬式《そうしき》のために、黒い服と、地味な琥珀の細工物が、たくさん必要とされるだろう」 「はい。お嬢《じょう》……」  言いかけたオーラーは、はっと口をつぐんだ。  演技ではない。  振《ふ》り向いたフルールに、即座《そくざ》に敬礼する。 「もう貴族ではない。商人だ。私の名は」  心の安らぎすら金に換《か》える商人になるために、最後の覚悟《かくご》の後押しをしてくれたミルトン。  フルールは、彼の名前を拝借することにした。 「エーブ」 「は?」  ミルトンの綴《つづ》りに線や点を足す。  自分たちがしてやられたように。 「エーブ・ボラン。商人だ」  雨が降り続く。  エーブは頭巾《ずきん》を巻きなおすや、積荷《つみに》を運ぶオーラーに手を貸した。  冷たい雨が降りしきる中、エーブ・ボランの金|儲《もう》けの第一歩が、踏《ふ》み出されたのだった。 [#地付き]終わり [#改ページ] [#改ページ]  あとがき  お久しぶりです。支倉凍砂《はせくらいすな》です。  十一巻目です。短編集です。短編集が出るのはこれで二|冊《さつ》目です。  実は私はデビューに至るまでずっと長編しか書いたことがなかったので、短編にはものすごい苦手意識がありました。また、短編だろうが長編だろうがネタは同じ一つ(つまり短編で使ってしまうともったいない!)という思い込みも手伝ってなかなか書いてこなかったのですが、これが書いてみると意外に書けてびっくりしました。特に、頭から尻尾《しっぽ》までホロとロレンスの馬鹿《ばか》なやり取りを書こうと思った時には短編のほうが圧倒《あっとう》的に適していました。  というわけで、収録されているホロとロレンスの話は激甘仕様になっています。苦情は受け付けません。  しかし、今回の本の半分を占《し》めるに至ったのはエーブの話。五巻、八巻、九巻に出てきた女商人です。以前からどうしても使いたかったけれども使えなかったネタにぴったりな役柄《やくがら》だったのでご登場願ったのですが、思った以上にページ数が膨《ふく》らんでしまい、こんな分量に。既刊《きかん》では守銭奴《しゅせんど》なエーブですが、今回の話ではまだまだ貴族気分が抜《ぬ》けない娘《むすめ》さんです。個人的には、これを読んでもらったあとにもう一度既刊のエーブの話を読んでもらえたらと思います。特に八巻と九巻を!  なにはともあれ、脇《わき》役の使い捨て率の高い本作ですが、エーブをやったので次はノーラかなとも思うのですが、実はこちらは原稿用紙で百五十枚くらいまで書いてほったらかしてあります。それが完成したら、あるいは……。落ちまでのプロットもあるんですが……やる気が……羊が……。  と、つらつら書いていたらページが埋《う》まってくれました。  次は長編のはずです。アニメ第二期が真《ま》っ盛《さか》りの頃《ころ》に出せればいいなと思っています! [#地付き]支倉凍砂 [#改ページ] 狼《おおかみ》と香辛料《こうしんりょう》�㈵ Side Colors㈼ 支倉《はせくら》凍砂《いすな》 [#ここから10字下げ] 発 行 二〇〇九年五月十日 初版発行 発行者 高野 潔 発行所 株式会社アスキー・メディアワークス [#ここで字下げ終わり]